中小企業の「シン人材確保戦略」を考える

第152回

カスハラ対策、10月から義務化 ― 「お客様は神様」のままでは、社員が辞めていく

一般社団法人パーソナル雇用普及協会  萩原京二

 

はじめに:あなたの社員は、一人で耐えていないか


想像してみてください。あなたの会社の若手社員が、電話口で一時間以上、同じ苦情を繰り返す相手に拘束されている。あるいは店頭で、大声で怒鳴られ、机を叩かれている。その社員は、上司に相談することもできず、「これも仕事のうちだ」と自分に言い聞かせて耐えている――。こうした場面は、決して大企業のコールセンターだけの話ではありません。従業員が顧客と接するすべての会社で、今この瞬間にも起きている可能性があります。

顧客からの理不尽な要求や暴言、脅しといった迷惑行為は「カスタマーハラスメント」、略して「カスハラ」と呼ばれます。クレーム(苦情)そのものが悪いわけではありません。商品やサービスへの正当な指摘は、会社を良くしてくれる貴重な情報です。問題は、その範囲を超えて、従業員の人格を攻撃したり、長時間拘束したり、土下座を要求したりといった、常識を逸脱した行為です。

そして今、このカスハラをめぐって、すべての会社に関わる大きな変化が目前に迫っています。2026年10月1日から、企業にカスハラ対策が法律で義務付けられるのです。根拠となるのは「改正労働施策総合推進法」――働く人を守るためのルールを定めた法律の改正で、事業主に対して、カスハラから従業員を守るための体制づくりや防止策を講じることを求めています。対象に企業規模の線引きはなく、中小企業も例外ではありません。

「うちは常連さんばかりだから関係ない」「クレーム対応は現場がうまくやってくれている」。そう思った経営者の方にこそ、この記事を読んでいただきたいのです。なぜなら、カスハラはもはや「クレーム処理のやり方」という現場の問題ではなく、「社員が辞めるか、残るか」という人材確保の問題になっているからです。実際、最近の調査では、カスハラを何度も受けた働き手の7割以上が退職を考えたという結果が出ています。人手不足に悩む中小企業にとって、これほど見過ごせない数字はありません。

本コラムでは、カスハラが人材流出に直結している実態、10月の義務化で何が変わるのか、そして先行企業の取り組みから中小企業が学べることを順に見ていきます。結論を先に言えば、カスハラ対策とは「会社が社員を守ると宣言すること」であり、それは法令対応である以上に、人材をつなぎとめる経営施策です。



カスハラは「人が辞める理由」になっている


■ 働く人の2人に1人が経験、7割超が退職を検討

まず、数字から見ていきましょう。ベリーベスト法律事務所が2026年7月に行った調査では、顧客と日常的に接する全国の働き手1,000人のうち、カスハラを受けた経験が「何度もある」と答えた人が18.2%、「たまにある」が26.1%、「一度だけある」が7.6%でした。合計すると、およそ2人に1人がカスハラを経験していることになります。

深刻なのはその先です。カスハラを何度も受けた人のうち、74.7%が「カスハラが原因で退職を検討した」と答えました。しかも26.9%は、転職活動を始める、退職を申し出るといった実際の行動に移していたのです。4人に1人以上が、検討にとどまらず動いていた。この事実の重みを、経営者は受け止める必要があります。

影響は退職だけではありません。何度もカスハラを受けた人の84.6%が「何らかの影響があった」と答えており、その中身は「仕事への意欲が下がった」が48.9%、「この仕事を続けていけるか不安を感じた」が40.7%、「配置転換・異動を希望した」が17.6%でした。つまり、辞めるところまでいかなくても、社員のやる気と生産性が確実にむしばまれているのです。調査を行った法律事務所の弁護士は、カスハラはすでに個々の従業員が耐えるかどうかの問題ではなく、企業の人材確保に直結する問題になっていると指摘しています。

この傾向は、特定の業界に限った話ではありません。携帯電話の販売店では、業界団体の調査で、直近1年半にカスハラを経験した従業員が回答者約1万1千人の6割に上りました。暴言を受けた人が半数近く、机を叩くなどの威嚇や脅迫を受けた人も約4割です。介護の分野では、高齢者宅を訪問してケアプラン(介護サービスの利用計画)を作る専門職であるケアマネジャーへの調査で、約8割がカスハラを受けたことがあると答えています。窓口、店頭、電話、訪問先――顧客と接点があるところには、どこにでもカスハラは起こり得るのです。


■ 一人辞めることの本当のコスト

では、この事実は中小企業の経営にとって何を意味するのでしょうか。答えは単純です。カスハラを放置することは、採用にかけたお金と時間をドブに捨てることと同じだということです。

いま、人材の採用にはかつてないコストがかかります。求人広告を出し、面接に時間を割き、ようやく採用しても、一人前になるまでには教育の期間が必要です。中途採用なら紹介会社への手数料が年収の3割前後かかることも珍しくありません。そうやって迎え入れた社員が、顧客からの暴言に耐えかねて辞めていく。しかも辞める理由が「カスハラに遭ったこと」そのものだけでなく、「カスハラに遭ったとき、会社が守ってくれなかったこと」だとしたらどうでしょうか。残った社員たちも、その一部始終を見ています。「この会社は、いざというとき自分を守ってくれない」という空気は、職場全体の士気を静かに下げていきます。

さらに言えば、人が辞めた穴は簡単には埋まりません。介護業界では、ケアマネジャーの担い手が2040年度にかけて最大8万3,000人分も追加で必要になるという予測があります。どの業界でも働き手の確保は年々難しくなっており、「辞めさせない」ことの経営上の価値は、これからますます高まっていくのです。試しに、自社で社員が一人辞めた場合の費用を書き出してみてください。求人広告費、面接に割く管理職の時間、入社後の教育期間の人件費、戦力になるまでの生産性の低下、引き継ぎの負担。合計すれば、年収の半分から一年分に相当するという試算も珍しくありません。その金額と、カスハラ対応のルールを一枚つくる手間とを天秤にかければ、どちらが安い投資かは明らかです。


■ 「正当なクレームとの線引きが難しい」という本音に向き合う

ここで、多くの経営者が抱くであろう疑問に、正面から触れておきます。「カスハラとクレームの線引きは、どこにあるのか」という問題です。

実際、東京都が2026年3月に公表した調査では、カスハラ防止対策に取り組んでいる企業は回答約4,700社のうち38.5%にとどまり、取り組んでいない理由として最も多かったのが「正当なクレームとの判断の難しさ」(29.6%)でした。この悩みはもっともです。お客様の声を大切にしてきた会社ほど、「クレームを門前払いする会社だと思われたら商売に響く」という心配が先に立つでしょう。厳しい指摘をしてくれる常連客が、実は会社を鍛えてくれている、という面も確かにあります。

しかし、ここで発想を整理する必要があります。カスハラ対策とは、クレームを受け付けないことではありません。「内容の正当性」と「手段の妥当性」を分けて考えることです。商品に不具合があったという指摘は正当でも、それを理由に従業員を3時間電話口に拘束したり、土下座を要求したり、SNS(インターネット上の交流サービス)で個人を晒すと脅したりする行為は、手段として一線を越えています。正当な指摘には誠実に対応し、一線を越えた行為にはき然と対応する。この二つは矛盾しないどころか、線引きを明確にすることで、まっとうなお客様への対応品質はむしろ上がります。対応する社員が萎縮せず、安心して顧客と向き合えるようになるからです。



10月の義務化で何が変わるのか


■ 義務の中身と、怠った場合に起きること

2026年10月1日に施行される改正法は、事業主に対して、カスハラ対策に必要な体制の整備や防止措置を義務付けます。具体的には、会社としての方針を定めて従業員に周知すること、従業員が相談できる窓口や体制をつくること、実際に起きたときに迅速・適切に対応する仕組みを整えることなどが柱になります。必要な措置を怠った場合には、行政からの指導や勧告の対象となる可能性があります。

ここで正直にお伝えすると、この義務化は「違反したら直ちに罰金」という類のものではありません。まずは行政指導が中心で、いきなり刑事罰が科されるわけではないのです。「それなら急がなくてもいいのでは」と思われるかもしれません。しかし、それは危険な判断です。理由は、経営を脅かすリスクは、法律の条文からではなく、現場から先にやってくるからです。


■ 本当のリスクは「指導」ではなく、賠償・評判・人材流出

カスハラ問題に詳しい弁護士は、対策を怠った企業に生じるリスクとして、行政指導以外に三つを挙げています。第一に、紛争リスク。会社には、従業員が安全に働けるよう配慮する法律上の義務(安全配慮義務)があります。カスハラを放置して従業員が心身を病めば、従業員から「会社が守ってくれなかった」として損害賠償を請求される可能性があるのです。第二に、評判リスク。「社員を守らない会社」という評判は、SNSの時代には一気に広がり、採用にも売上にも響きます。第三に、人材流出リスク。これは前の章で見たとおりです。

つまり、10月の義務化は「新しいリスクが生まれる日」ではなく、もともと存在していたリスクに、国が「対策せよ」と期限を切った日と捉えるべきなのです。義務化を機に対策した会社と、先送りした会社。仮に同じようなカスハラ事案が起きたとき、裁判や労働紛争の場で両者がどう評価されるかは、想像に難くありません。「法律で義務化された後も、方針すら定めていなかった」という事実は、会社にとって極めて不利な事情として扱われるでしょう。逆に言えば、方針の策定と周知、相談体制の整備という基本を押さえておくことは、万一の紛争の場面で「会社としてやるべきことはやっていた」と示せる、いわば保険の役割も果たすのです。


■ 最悪のケースは現実に起きた――国と自治体も本腰

なぜ国がここまで踏み込むのか。その背景には、痛ましい事件があります。2026年6月、埼玉県川口市で、利用者宅を一人で訪問していた63歳のケアマネジャーの女性が、利用者の息子に刃物で殺害される事件が起きました。介護や訪問サービスの現場では「明日は我が身かもしれない」という声が広がり、一人で訪問しない体制づくりや、危険を感じる家の情報を共有する仕組みづくりが始まっています。

行政の動きも加速しています。厚生労働省は、利用者宅を複数人で訪問する経費を補助事業の対象にすると自治体に通知しました。東京都は複数人訪問への給与相当額の補助を始め、事件のあった埼玉県も補正予算を組み、複数人訪問の経費補助に加えて、防犯ブザーやICレコーダー(会話を録音する機器。カスハラの抑止効果が期待されています)などの購入費を最大10万円補助する制度を設けました。東京都は2025年4月に全国に先駆けてカスハラ防止条例を施行し、マニュアル作成やAI(人工知能)を使った対策システムの導入に取り組む中小企業に40万円の奨励金を支給しています。2026年度第1回の募集には、予定の2,500件を上回る応募が殺到しました。

これは極端な事件を引き合いに不安をあおりたいのではありません。お伝えしたいのは、カスハラが「我慢」や「接客スキル」で吸収できる範囲をすでに超えており、国も自治体も「会社と社会の仕組みで守るべき問題」と位置づけを変えたという事実です。この流れは、もう後戻りしません。



先行企業に学ぶ「現場任せにしない」対策


■ 共通項は、会社が「守る」と宣言すること

では、具体的に何をすればよいのでしょうか。先行して取り組んできた企業の事例を見ると、業種はばらばらでも、はっきりした共通項があります。それは、カスハラ対応を現場の個人に任せず、会社が方針を決めて「社員を守る」と目に見える形で宣言していることです。

たとえば携帯電話の販売店では、「暴力や脅迫、従業員の無断撮影があった場合は警察に通報します」「今後のご利用をお断りする場合があります」と、具体的な行為を例示したポスターを店頭に掲げています。これには来店客への抑止効果だけでなく、「会社が自分たちを守ってくれる」という従業員の安心感を高める効果があったといいます。ポスター一枚に見えますが、その裏側には「どこからがカスハラで、そのとき会社としてどう対応するか」を決めるという、経営の意思決定があります。

コールセンター業界の団体は、カスハラに当たる行為を具体的な文言で示したガイドラインを公表しました。「政治家や警察、会社の上層部と知り合いだとほのめかして従業員を萎縮させる発言」「平均通話時間の3倍以上の拘束」といった具合に、あいまいになりがちな「判定ライン」を言葉にして、各社に自社版をつくるよう呼びかけています。前の章で触れた「線引きの難しさ」への答えは、まさにここにあります。線引きは、悩むものではなく、あらかじめ決めて文書にしておくものなのです。


■ 「困ったら、ここに連絡していい」が人を定着させる

もう一つの共通項は、従業員が一人で抱え込まずに済む「逃げ道」を用意していることです。

タクシー大手の日の丸交通は、乗客からの暴力や暴言で運転に支障が出る場合は、いったん停車して行為をやめるよう伝え、納得してもらえなければ営業所に連絡して運行管理者の判断を仰ぐ、という手順を研修でドライバーに徹底しています。注目すべきはその効果です。同社では以前、離職者への調査で「顧客対応のストレス」が退職理由として多く挙がっていました。臨機応変な対応を「現場で学べ」という文化を改め、困ったら営業所に電話してよいと明確にしたところ、離職率が下がったというのです。カスハラ対策が人材定着の施策であることを、これほど分かりやすく示す事例はありません。

カフェチェーンのタリーズコーヒージャパンは、従業員が顧客からSNSでつきまとい行為を受けた事件をきっかけに、名札の実名表記を廃止しました。さらに、店長が不在の時間帯でも従業員が本社の相談室に直接電話できるよう、店の固定電話のそばに直通番号を掲示しています。学生やパートタイマーが多い現場で、「困ったら助けを求められる」という意識そのものが安心感につながる、という考え方です。

これらの事例を貫く思想は明快です。カスハラの現場で、経験の浅いスタッフに「うまくさばけ」と求めるのは酷であり、非効率でもある。判断は仕組みと上位者が引き受け、現場は決められた手順で助けを呼べばよい、という役割分担への転換です。


■ 中小企業への翻訳――ゼロから作る必要はない

「大手だからできるのでは」と感じたかもしれません。しかし、これらの取り組みの本質は、お金のかかる設備投資ではなく「決めること」と「知らせること」です。中小企業なりのやり方は十分にあります。

中小企業の法務に詳しい弁護士は、第一歩として「自社にどんなクレームが多いのか、対応でどんな失敗があったのか、そこから得た教訓は何かを現場から集めること」を勧めています。立派なマニュアルを外から買ってくる前に、まず自社の現実を知る。そのうえで、集まった事例を厚生労働省の指針を参考に類型化していけば、自社の実態に合った対応方針ができあがります。厚労省はカスハラ対策の企業向けマニュアルを公開しており、スーパーマーケット業向け、宅配業向けといった業種別の版も出ています。ゼロから考える必要はないのです。

相談体制についても、新しい窓口を設ける余裕がなければ、既存のパワハラ・セクハラの相談窓口をカスハラにも使えるようにするという方法があります。これも弁護士が現実的な工夫として挙げているやり方です。社員数十人の会社なら、「カスハラかもしれないと思ったら、まず〇〇さんに報告。対応方針は社長と〇〇さんで決める。顧客対応を一人で完結させない」という一枚のルールを作って朝礼で周知するだけでも、現場の心理的な負担は大きく変わります。

大事なのは、作ったルールを引き出しにしまい込まないことです。方針は社員に周知されて初めて意味を持ちますし、実際に報告が上がってきたときに経営者が「それくらい我慢しろ」と返してしまえば、制度は一日で信用を失います。報告してくれた社員をねぎらい、会社として対応した結果を本人に伝える。この小さな積み重ねが、「うちの会社は本当に守ってくれる」という実感をつくります。

ただし、一つ現実もお伝えしておきます。対策に「これで完璧」はありません。ケアマネジャーへの調査では、勤め先が何らかの対策を講じていると答えた人は約7割いたのに、その対策が「十分である」と答えた人はわずか1.5%でした。組織的に取り組んでいる業界ですら、この数字です。だからこそ、完璧な制度を目指して検討を重ねるより、小さくても今日決めて、運用しながら直していく姿勢が、結果的に社員を守ります。義務化まで残された時間を考えれば、なおさらです。



おわりに:「社員を守る会社」に、人は残る


ここまでの話を一つに束ねると、こうなります。カスハラ対策の義務化とは、国が企業に面倒な宿題を課したのではなく、「社員を守れない会社は、これから人を確保できない」という時代の変化を、法律が追認したということです。カスハラを何度も受けた人の7割超が退職を考え、対策に取り組んだ会社では離職率が下がった。この二つの事実だけで、経営者が何をすべきかは明らかではないでしょうか。

10月1日の施行日までに、まずは次の三つを確認してみてください。

チェック1 自社の実態を知る 現場の社員に「困った客対応」の経験を聞き、事例を集める。どんな行為に、誰が、どれくらい悩んでいるかを経営者が把握する。

チェック2 線引きを文書にする 「ここから先は応じない・警察に通報する」という自社の判定ラインと対応手順を、厚労省マニュアルを参考にA4一枚でよいので明文化する。

チェック3 相談先を決めて知らせる カスハラに遭ったとき誰に報告し、誰が判断するかを決め、全社員に周知する。既存のハラスメント相談窓口の活用や、自治体の奨励金・補助制度の確認もあわせて行う。

どれも、明日から着手できることばかりです。そして最後に、一つだけ問いかけさせてください。あなたの会社の社員は、理不尽な客の前に立ったとき、「会社が守ってくれる」と信じられているでしょうか。その信頼こそが、人手不足の時代に人が残る会社と、去られる会社を分けるのだと、私は考えています。


 

プロフィール

一般社団法人パーソナル雇用普及協会
代表理事 萩原 京二

1963年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒。株式会社東芝(1986年4月~1995年9月)、ソニー生命保険株式会社(1995年10月~1999年5月)への勤務を経て、1998年社労士として開業。顧問先を1件も持たず、職員を雇わずに、たった1人で年商1億円を稼ぐカリスマ社労士になる。そのノウハウを体系化して「社労士事務所の経営コンサルタント」へと転身。現在では、200事務所を擁する会員制度(コミュニティー)を運営し、会員事務所を介して約4000社の中小企業の経営支援を行っている。2023年7月、一般社団法人パーソナル雇用普及協会を設立し、代表理事に就任。「ニッポンの働き方を変える」を合言葉に、個人のライフスタイルに合わせて自由な働き方ができる「パーソナル雇用制度」の普及活動に取り組んでいる。


Webサイト:一般社団法人パーソナル雇用普及協会

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