第53回
企業と競業避止契約の今後を考える
一般社団法人パーソナル雇用普及協会 萩原 京二
1. 競業避止契約とは何か?
競業避止契約とは、企業が退職者に対して一定期間、同業他社への転職や同業での起業を禁じる契約のことを指します。特に、企業が持つ営業秘密や技術的ノウハウ、重要な顧客情報などの流出を防ぐために、この契約は頻繁に結ばれます。企業側としては、こうした情報が退職者を通じて競合他社に流れることを防ぎ、自社の競争力を守るために転職制限を設ける必要性があります。
また、昨今の転職市場の活性化により、労働者の流動性が増しています。これに伴い、秘密情報の流出リスクも高まっていることから、多くの企業が競業避止契約を導入し、従業員の退職時にこれを結ばせるケースが増えています。特に、技術系企業や知識集約型の産業においては、競業避止契約が一般的なものとなってきています。
しかし、競業避止契約には労働者の職業選択の自由を制限する側面があるため、契約内容が不合理であった場合や制限が過度に広範な場合、法律的に無効と判断されることもあります。このため、企業は競業避止契約を慎重に設計し、従業員に対しても適切に説明する必要があるのです。
2. 司法判断の変化: 1年以上の制限が認められにくくなる背景
近年、競業避止契約に関する司法判断が変化してきています。特に注目されるのは、1年以上にわたる転職制限が認められにくくなっている点です。この背景には、事業ノウハウや技術の陳腐化が急速に進んでいることが挙げられます。競業避止契約の目的である秘密情報の保護やノウハウの流出防止が、長期間にわたる制限ではもはや合理的とは言えなくなっているという認識が広がっています。
2022年の東京地裁の判決では、情報技術者を派遣する企業が元従業員のシステムエンジニアに課していた1年間の転職制限を「無効」と判断しました。このケースでは、元従業員が転職した先が元の派遣先の関係企業であったため、派遣会社は競業避止契約違反を理由に損害賠償を求めました。しかし、東京地裁は、派遣会社が主張する独自のノウハウや秘密情報が明確でないことを理由に、転職制限の合理性を否定しました。さらに、転職禁止先の範囲が広すぎることも指摘され、「制限が公序良俗に反する」との結論に至りました。
このように、近年の裁判では、競業避止契約における制限の合理性がより厳しく問われる傾向が強まっています。企業が競業避止契約を行う際には、従業員に対して具体的な根拠や合理的な理由を示すことが重要になってきています。
3. 競業避止契約の4つの判断要素
競業避止契約が法律的に有効か無効かを判断する際、裁判所は複数の要素を考慮します。1970年に奈良地裁が示した4つの判断基準が現在も主に用いられており、これらの要素を満たしているかどうかが重要なポイントとなります。
その4つの要素は以下の通りです:
(1)元の企業に競業避止を主張する正当な利益(理由)があるか
企業が退職者に対して転職を制限する正当な理由が存在するかどうかが問われます。例えば、退職者が企業の営業秘密や顧客情報にアクセスしていた場合、企業の競争力保護という観点から正当な利益が認められる可能性があります。
(2)退職者が営業秘密や事業ノウハウに触れうる地位にあったか
退職者が企業内でどのような地位にあり、実際にどの程度の営業秘密や事業ノウハウに触れていたかが考慮されます。単に肩書きだけで判断されるのではなく、具体的な業務内容や情報アクセス権限が重要視されます。
(3)就業制限の範囲・期間は妥当か
転職制限の範囲や期間が過度に広すぎる場合、合理的な制限と認められないことがあります。例えば、競業避止契約の対象企業が広範囲に設定されていたり、制限期間が1年を超える場合には、無効と判断されるリスクが高まります。
(4)制限に対する金銭面などの代償措置の有無と内容
競業避止契約によって転職が制限される退職者に対して、適切な代償が提供されているかも重要です。例えば、転職期間中の生活費を補填するような金銭的な代償措置が取られているかどうかが判断に影響を与えます。
これらの4つの要素は、裁判所が競業避止契約の有効性を判断する際に重要な指標となります。企業が競業避止契約を導入する際には、これらの要素を踏まえた上で、契約内容を慎重に設計することが求められます。
4. 最新の司法判断: 悪質な違反への対応
最近の競業避止契約に関する判決では、退職者の「悪質性」に焦点を当てた判断が目立つようになっています。特に注目されるのが、2023年11月の東京高裁の判決です。この判決では、投資ファンドの日本産業パートナーズが競業避止契約を違反した元社員に対して、退職金の4分の3を支給しなかったというケースが扱われました。
この元社員は、退職直後に同業他社に転職し、その過程で担当していた案件の資料を1000ページ以上コピーしていたことが判明しました。東京高裁は、こうした行為を「著しく信義に反する行為」として、競業避止義務違反の悪質性を強調しました。判決の中で、退職金の減額が許されるのは「勤続の功を抹消ないし減殺するほどの重大な違反行為がある場合に限る」とし、元社員の行為はこの基準に該当すると認定しました。
このケースは、企業が競業避止契約を理由に従業員の退職金を減額または不支給にすることが可能である一方で、裁判所がその判断を慎重に行う姿勢も示しています。特に、退職者が企業の秘密情報やノウハウを不正に持ち出した場合、競業避止契約の違反が悪質と見なされ、企業側の主張が認められるケースが増えつつあります。
一方で、こうした悪質なケースがない場合、労働者側が勝訴することもあり、競業避止契約に関する裁判の結果を予測することは依然として難しい状況です。企業としては、競業避止契約を慎重に運用し、契約内容の適正性や労働者の行為の悪質性について十分に説明できる体制を整えることが求められます。
5. 企業に求められる対応: 透明性と合理性の強調
競業避止契約に関する司法判断が厳格化する中で、企業は契約内容の透明性と合理性を高めることが求められています。特に、転職制限の期間と範囲については、必要最小限に留めることが重要です。過去には2年間の転職制限が認められたケースもありましたが、現在ではノウハウや営業秘密が急速に陳腐化することから、1年以上の制限が無効とされるリスクが高まっています。
また、転職禁止の対象となる企業の範囲についても、曖昧な表現ではなく、具体的な企業名や業種を明確に示す必要があります。競業避止契約が労働者の職業選択の自由を著しく制限する場合、契約そのものが公序良俗に反するとして無効となる可能性があります。したがって、企業は制限を行う合理的な理由を説明し、労働者に対して納得のいく形で契約内容を提示することが求められます。
この点において、労働者に対する丁寧な説明は不可欠です。転職制限の正当性や秘密情報の保護が企業の利益に直結するものであることを明確にし、その代わりとして労働者に対して何らかの代償措置が提供される場合は、その内容を具体的に説明する必要があります。特に、高度な専門知識を有する技術者や営業担当者など、企業の重要なノウハウや顧客情報にアクセスできる従業員に対しては、透明なコミュニケーションを通じて信頼関係を構築することが大切です。
企業側の代理人を務めた弁護士も、企業が転職先を幅広く制限しすぎるリスクについて指摘しており、無効とされるリスクを考慮した上で、契約内容の見直しが重要であるとしています。今後、企業が競業避止契約を導入する際には、労働者の職業選択の自由を尊重しつつ、自社の利益を守るバランスの取れた契約を作成することが求められます。
6. 結論: 今後の競業避止契約の行方
競業避止契約は、企業にとって重要な営業秘密やノウハウを守る手段として依然として有効ですが、その運用には慎重さが求められます。従業員の転職の自由を尊重しつつも、企業の正当な利益を守るためには、契約内容の合理性がより一層求められる時代となってきました。
司法判断においても、制限期間や範囲、代償措置の適切さが厳格に審査される傾向が強まっており、企業側は労働者に対して契約内容を十分に説明し、必要な場合には契約の見直しを行うことが不可欠です。また、従業員がどのような地位にあり、実際に営業秘密にアクセスできたかどうかも重要な要素となります。
今後、企業は労働者との信頼関係を築きながら、透明性の高い競業避止契約を作成する必要があります。そして、契約が無効とならないために、制限の範囲や期間を必要最小限に抑えつつ、適切な代償措置を提供するなど、労働者の権利を尊重する姿勢が求められます。競業避止契約は、企業と労働者双方の利益を守るためのバランスが重要であり、その運用の仕方次第では双方にとって有益なものとなり得るのです。
プロフィール
一般社団法人パーソナル雇用普及協会
代表理事 萩原 京二
1963年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒。株式会社東芝(1986年4月~1995年9月)、ソニー生命保険株式会社(1995年10月~1999年5月)への勤務を経て、1998年社労士として開業。顧問先を1件も持たず、職員を雇わずに、たった1人で年商1億円を稼ぐカリスマ社労士になる。そのノウハウを体系化して「社労士事務所の経営コンサルタント」へと転身。現在では、200事務所を擁する会員制度(コミュニティー)を運営し、会員事務所を介して約4000社の中小企業の経営支援を行っている。2023年7月、一般社団法人パーソナル雇用普及協会を設立し、代表理事に就任。「ニッポンの働き方を変える」を合言葉に、個人のライフスタイルに合わせて自由な働き方ができる「パーソナル雇用制度」の普及活動に取り組んでいる。
Webサイト:一般社団法人パーソナル雇用普及協会
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