第86回
日本特有の雇用慣行とグローバルスタンダードとの乖離 ~減給処分と定年制度を例に考える~
一般社団法人パーソナル雇用普及協会 萩原 京二
はじめに
皆さんの会社では、社員が会社のルールに違反したとき、どのような懲戒処分を行いますか?また、何歳で定年を迎えるのでしょうか?
日本の多くの企業では、懲戒処分として「減給」を設けていたり、60歳や65歳での「定年制度」を当たり前のように運用していることでしょう。しかし、これらの慣行は実は国際的な視点から見ると「人権侵害」や「年齢差別」として問題視されるものなのです。
今回は、日本企業に根付く雇用慣行とグローバルスタンダードとの間にある溝について、中小企業の経営者の皆様にもわかりやすくお伝えします。
1.減給処分とは何か?
まず、減給処分について考えてみましょう。減給とは、労働者が会社の規律に違反した際に、懲戒処分として賃金を一定額減額する制度です。日本の労働基準法第91条では、「1回の額が平均賃金の1日分の半額を超え」ず、「総額が1賃金支払期における賃金総額の10分の1を超えてはならない」と規定しています。
多くの日本企業では、懲戒処分の一つとして、軽い順に「譴責(けんせき)」「減給」「出勤停止」「降格・降職」「諭旨解雇」「懲戒解雇」といった段階を設けています。中小企業の就業規則でも、このような規定を設けていることでしょう。
2.グローバルスタンダードから見た減給処分
しかし、この減給処分は国際的には大きな問題をはらんでいます。グローバル企業が加盟する「責任ある企業同盟(RBA)」の行動規範では、「懲戒・懲罰処分としての賃金からの控除は認められません」と明確に禁止しています。
国際労働機関(ILO)も、「懲戒処分としての賃金控除に関する国際労働基準はない」とした上で、「多くの国で賃金控除による懲戒処分が公式に禁止されている」と指摘しています。
なぜでしょうか?それは、「働いた分の賃金を払わない」ことが、人間の尊厳を傷つけ、時には「強制労働」とみなされかねないからです。例えば、リコーのSG戦略部室長は「働いた分の賃金を払わない減給は国際的には強制労働などとみられかねない」と述べています。
3.日本企業で減給廃止の動き
このような国際的な視点から、キヤノン、リコーなど、グローバル展開する日本企業の中には、RBAの行動規範に合わせて減給処分を廃止する動きが広がっています。これらの企業は、国際的な人権規範に合わせることで、グローバル市場での競争力を維持しようとしているのです。
現場の人事担当者からは「最も軽い戒告から出勤停止に飛ぶのはバランスが悪く、グループ企業の人事担当を集めた説明会が必要だった」という声もあるように、日本の雇用慣行との間に大きなギャップが存在します。
4.定年制度とは何か?
次に、日本ではもっと当たり前に受け入れられている「定年制度」について見ていきましょう。
定年制度とは、一定の年齢に達した時点で労働契約が自動的に終了する制度です。日本では主に60歳や65歳が定年として設定され、その後は再雇用や継続雇用といった形で、多くの場合、賃金や役職が下がった状態で働き続けることになります。
厚生労働省の調査によると、日本企業の約93%が定年制を設けており、そのうち定年を廃止している企業は3.9%に過ぎません。現在の日本では、65歳までの雇用確保措置が義務付けられていますが、基本的な定年制度自体は広く受け入れられています。
5.グローバルスタンダードから見た定年制度
しかし、国際的な視点で見ると、定年制度は「年齢による差別」として厳しく批判されています。アメリカ合衆国では1967年に「雇用における年齢差別禁止法(ADEA)」が制定され、年齢を理由とした雇用差別が禁止されています。イギリス、カナダ、オーストラリアなどでも同様に年齢差別は禁止されています。
これらの国々では、労働者の能力や業績を評価し、年齢だけを理由に雇用を終了させることは法的に認められていないのです。つまり、年齢に関係なく、能力があれば働き続けることができます。
OECDの調査によれば、加盟38カ国のうち、60歳での定年を企業に容認しているのは日本と韓国だけです。OECDは2024年1月、日本政府に「定年制の廃止」を提言しています。
6.なぜ日本では定年制度が広く浸透しているのか?
日本で定年制度が普及した背景には、終身雇用・年功序列という日本特有の雇用システムがあります。若いうちは実力以下の給与であっても、年齢とともに賃金が上昇し、最終的にはバランスが取れるという考え方です。
しかし、この制度は高齢者の雇用や労働力の流動性を阻害するとも言われています。OECDのシニアエコノミストは「60歳でいったん辞めてもらい、その後は低い賃金と低いポジションで再雇用するとわかっている中高年の従業員に対し、企業は積極的に教育訓練をしようとは考えない」と指摘しています。
こうした状況は、高齢者の能力開発やモチベーションの維持に悪影響を及ぼすだけでなく、企業にとっても人的資源の活用面で損失となっているのではないでしょうか。
7.中小企業にとっての課題と機会
では、このような国際的な基準や価値観の変化は、日本の中小企業にとって何を意味するのでしょうか?
・減給処分の見直し
減給処分に代わる懲戒処分の整備が必要になります。例えば、軽微な違反には「譴責」、より重い違反には「出勤停止」を適用するなど、減給以外の選択肢を検討することが大切です。または、減給処分の代わりに「ボーナス査定への反映」といった形で対応する方法もあるでしょう。
ただし、懲戒処分の本来の目的は「制裁」ではなく「教育・改善」であることを忘れてはなりません。違反行為をした社員に対しては、単に罰するだけでなく、なぜその行為が問題であったかを理解させ、今後同じことを繰り返さないような教育的アプローチが重要です。
・定年制度の柔軟化
定年制度についても再考する時期に来ているかもしれません。いきなり定年制度を廃止するのは難しいでしょうが、以下のような段階的なアプローチが考えられます
(1)年齢ではなく能力による評価システムの導入:年齢に関係なく、能力や成果に基づいて評価・処遇する仕組みを整える
(2)選択制定年制度の導入:社員が自ら定年年齢を選択できる制度の検討
(3)役割や貢献に応じた多様な働き方の提供:フルタイム勤務だけでなく、パートタイム、プロジェクト単位など、高齢者のニーズに合わせた柔軟な働き方の選択肢を増やす
中小企業には、大企業に比べて制度変更の機動性があります。人手不足の現状を考えれば、熟練した高齢者の技能を活かす仕組み作りは、むしろビジネスチャンスになるかもしれません。
8.変化をチャンスに変える視点
これらの制度変更は、単なる「国際基準への対応」ではなく、企業の競争力強化につながる可能性があります。
例えば、減給処分の廃止は、社員との信頼関係を強化し、より前向きな職場環境を作るきっかけになるでしょう。また、定年制度の柔軟化は、熟練した人材の維持や多様な働き方の促進につながり、人材確保が難しい時代における強みになるかもしれません。
実際、定年制を廃止したYKK社は「経営理念の『公正』の実現や、グローバル企業であること」を背景に挙げています。つまり、これらの変化は単なる制度変更ではなく、企業価値の向上にもつながるのです。
まとめ:変わる時代、変えるべきもの、守るべきもの
日本の雇用慣行とグローバルスタンダードには確かに乖離がありますが、それを単に「日本は遅れている」と捉えるのではなく、自社の経営理念や価値観に照らし合わせて、何を変え、何を守るべきかを考える必要があります。
減給処分や定年制度は、長らく日本企業に根付いてきた慣行ですが、人権意識の高まりやグローバル化の進展に伴い、再考を迫られています。特に海外展開を視野に入れている企業や、優秀な人材を確保したい企業にとっては、国際的な基準に合わせた制度改革が競争力につながるでしょう。
一方で、日本には「人を大切にする経営」という素晴らしい伝統もあります。終身雇用や企業内教育など、日本の良き雇用文化を捨て去るのではなく、グローバルスタンダードと融合させた、新しい日本型経営モデルを構築することが求められているのではないでしょうか。
中小企業の経営者の皆さんには、この変化の波を恐れるのではなく、自社の強みを活かした新たな雇用モデルを構築する好機と捉えていただきたいと思います。人材が最大の資源である現代において、人権を尊重し、多様な人材の能力を最大限に引き出す組織こそが、長期的な成功を収めるのではないでしょうか。
時代は変わりつつあります。私たちの雇用慣行も、時代に合わせて進化する必要があるのかもしれません。
プロフィール
一般社団法人パーソナル雇用普及協会
代表理事 萩原 京二
1963年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒。株式会社東芝(1986年4月~1995年9月)、ソニー生命保険株式会社(1995年10月~1999年5月)への勤務を経て、1998年社労士として開業。顧問先を1件も持たず、職員を雇わずに、たった1人で年商1億円を稼ぐカリスマ社労士になる。そのノウハウを体系化して「社労士事務所の経営コンサルタント」へと転身。現在では、200事務所を擁する会員制度(コミュニティー)を運営し、会員事務所を介して約4000社の中小企業の経営支援を行っている。2023年7月、一般社団法人パーソナル雇用普及協会を設立し、代表理事に就任。「ニッポンの働き方を変える」を合言葉に、個人のライフスタイルに合わせて自由な働き方ができる「パーソナル雇用制度」の普及活動に取り組んでいる。
Webサイト:一般社団法人パーソナル雇用普及協会
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