第134回
中小企業の経営者が知っておきたい 「人的資本可視化指針(改訂版)」の読み方 ~大企業のルールから、自社の経営を磨くヒントへ~
一般社団法人パーソナル雇用普及協会 萩原京二 氏
はじめに ― なぜ、いま「人的資本」なのか
「人的資本」という言葉を、新聞や経済誌で見かける機会が増えてきました。上場企業の有価証券報告書では、すでに2023年から人材に関する情報の開示が義務になっており、今年(2026年)3月には、その考え方を整理した国の指針「人的資本可視化指針」が改訂されています。
この指針は、内閣官房・金融庁・経済産業省の3者が共同でまとめたもので、もともとは投資家に対して「自社の人材戦略」をどう説明するかをテーマにしています。つまり、直接の対象は上場企業です。
そう聞くと、「うちのような中小企業には関係のない話だな」と感じる経営者の方も多いかもしれません。しかし、私はあえて中小企業の経営者の皆さまにこそ、この指針の中身を知っていただきたいと考えています。なぜなら、改訂版の指針が示しているのは、開示の細かいルールではなく、「これからの時代に企業がどう人材と向き合うべきか」という、経営の本質的な問いだからです。
人手不足は深刻さを増し、生成AIの普及で必要なスキルは目まぐるしく変化しています。若い人は、給与や福利厚生だけではなく、「この会社で働く意味」や「自分の成長機会」を見て就職先を選びます。こうした環境のなかで、経営者が「自社にはどんな人材が必要で、その人材をどう確保し、どう活かすか」を明確に語れるかどうかは、会社の存続と成長を左右する大きな分岐点になりつつあります。
本コラムでは、改訂版の指針のエッセンスを中小企業の目線でかみ砕いてお伝えしながら、「いま、自社で何から考え始めればよいか」のヒントを整理していきます。
1.人的資本可視化指針とは何か
人的資本という考え方
「人的資本」とは、従業員一人ひとりが持っている知識・経験・スキル・意欲を、企業価値を生み出す「資本」として捉える考え方です。従来の会計の世界では、人にかかるお金は「人件費」や「研修費」として、いわば消えていく費用(コスト)として扱われてきました。しかし、人材の力こそが付加価値の源泉だと考えれば、それは将来のリターンを生み出すための投資にほかなりません。
改訂版の指針では、この発想の転換を強く打ち出しています。人件費は、削れば短期的には利益が増えるかもしれません。けれども、必要な人材投資を怠れば、中長期的に会社の競争力が削がれていきます。「人を費用と見るか、資本と見るか」――この見方の違いが、これからの経営の分かれ道になるという指摘です。
日本の現状と国の危機感
改訂版の指針の冒頭では、日本の人的資本投資が国際的に見てかなり低い水準にとどまっていることが示されています。国の人的資本投資額の対GDP比は、米国が約1.75%、フランスが約1.66%、ドイツが約1.12%であるのに対し、日本はわずか0.22%しかありません。研究開発費に占める人件費の割合も、日本は他国に比べて低い水準です。
また、経済産業省の試算では、2040年には人口減少が進み、AIやロボットの活用が進んでも、専門職や現場人材で大幅な需給ミスマッチが生じる可能性があるとされています。国としては、企業が人への投資を拡大し、その内容を見える化していくことが急務だ、というメッセージを込めて指針を改訂したのです。
改訂のキーメッセージ
2022年の旧指針は、「どんな指標を開示すべきか」に重点が置かれていました。女性管理職比率、離職率、エンゲージメントスコアなど、各社が取り組むべき指標の一覧を示すかたちです。
ところが実際の開示を見ると、「決められた項目を埋めただけ」で、自社の経営戦略との結びつきが見えてこないケースが多くありました。投資家からも「指標を並べただけでは、会社が何を目指しているのかわからない」という声が上がっていたのです。
改訂版のキーメッセージは、たいへんシンプルです。「経営戦略と人材戦略を、ひとつの物語としてつなげて語ってください」。そして、その物語の進み具合を測るために、自社らしい指標を選んで示してください、というものです。
2.改訂版の核心 ― 経営戦略と人材戦略の連動
「あるべき組織・人材の姿」を描く
改訂版で最も強調されているのが、経営戦略と人材戦略の「連動」です。改訂前は、経営戦略の箱と人材戦略の箱が矢印でつながっているだけで、その間に何があるのかが曖昧でした。今回の指針は、その間に「あるべき組織・人材の姿」と「必要となる人的資本投資」という二つのステップを置きました。
具体的には、こういう順序で考えます。まず、経営戦略を実現するためには、3年後・5年後・10年後にどんな組織で、どんな人材が、どれだけ必要なのかを描きます。次に、現在の自社の組織・人材と、その「あるべき姿」とのギャップを洗い出します。そのうえで、ギャップを埋めるための施策(採用・育成・処遇・働き方改革など)を整理し、経営に与える影響度の大きい順に優先順位をつけて、人材戦略として実行していく――こういう流れです。
「依存」と「影響」という相互関係
もう一つ、改訂版で目を引くのが、企業と人的資本の関係を「依存」と「影響」という二つの言葉で説明している点です。これは国際的なサステナビリティ開示基準(IFRS S1)の考え方を取り入れたものですが、中身はとても直感的です。
経営戦略を実現できるかどうかは、必要な人材を確保できるかどうかに「依存」しています。一方で、企業は採用や育成、賃金水準の設定、職場環境の整備を通じて、人材に「影響」を与えています。この相互関係をきちんと意識することで、「自社の経営戦略にとって、どんな人材リスクと、どんな人材機会があるのか」が見えてきます。
投資家の関心はストーリーと指標の組み合わせ
指針が紹介しているグローバル投資家の意見を要約すると、彼らが見ているのは大きく二つです。一つは、経営戦略と人材戦略をつなぐ「ストーリー」。もう一つは、そのストーリーの進捗を測る「指標」です。
指標については、「他社と比べられる指標」と「自社ならではの独自指標」の組み合わせが望ましいとされています。具体的に投資家が幅広い企業に期待している共通指標は、従業員数、人件費、離職率、従業員エンゲージメントスコアの4つです。これに加えて、自社の戦略を映し出す独自の指標(たとえばAI人材の採用数や女性管理職候補のパイプライン人数など)を組み合わせて開示することが期待されています。
3.4つの要素 ― ガバナンス・戦略・リスク管理・指標及び目標
改訂版の指針は、国際基準の枠組みに合わせて、人的資本開示を4つの要素で整理することを推奨しています。聞き慣れない言葉が並びますが、中身は中小企業の経営にも応用できるものばかりです。
ガバナンス ― 取締役会は人材を語っているか
ガバナンスとは、経営の意思決定と監督の仕組みのことです。指針では、人材戦略を取締役会がきちんと監督しているか、そのために必要なスキルが取締役会に備わっているか、どのくらいの頻度で人材に関する議論が行われているかを開示することが求められています。
中小企業に置き換えれば、「経営会議や役員会で、人材の話がどれくらいの時間と熱量で議論されているか」という問いになります。売上や利益の数字は毎月確認するのに、人材の状況は採用シーズンや退職者が出たときにしか議論されない――そんな会社は少なくありません。経営の中心テーマとして、人材を継続的に議論する場を持っているかどうか、これがガバナンスの第一歩です。
戦略 ― リスクと機会を見据えた人材戦略
戦略の要素では、経営戦略から生じる人的資本のリスクと機会を整理し、それに対する人材戦略をどう描いているかを示すことが求められます。
国際的には、人的資本のリスクと機会を、「Composition(従業員構成)」「Capability(能力・スキル)」「Conditions(労働・職場環境)」の3つに分けて整理する考え方も検討されています。中小企業の経営者にとっても、この3つの軸はとても使いやすい整理になると思います。つまり、「必要な人数を確保できるか」「必要なスキルを持っているか」「働き続けたいと思える環境を提供できているか」という三つの問いです。
リスク管理 ― 人材リスクを継続的にモニタリングする
リスク管理の要素では、人材に関するリスクをどのようにして見つけ、評価し、優先順位をつけ、追跡しているかを示すことが期待されます。中小企業の場合、たとえば「主要メンバーの突然の退職」「特定の技能を持つ人材の高齢化」「現場のメンタルヘルス不調の増加」といったリスクが該当します。
重要なのは、こうしたリスクを偶発的な出来事として処理するのではなく、経営の重要課題として継続的に管理する仕組みを持つことです。人材リスクは、いったん顕在化すると業績に直結するからこそ、通常のビジネスリスクと同じレベルで管理する姿勢が求められます。
指標及び目標 ― 数字で見える化する
最後の要素が、指標と目標です。せっかく人材戦略を描いても、進捗を数字で追いかけられなければ、絵に描いた餅で終わってしまいます。だからこそ、自社の戦略にあった指標を選び、達成すべき目標を設定し、毎年の進捗を可視化していくことが大切になります。
ここで強調されているのは、指標は他社の真似ではなく、自社の戦略を映し出すものでなければならないという点です。「他社が出しているから」という理由だけで指標を増やしても、経営の役には立ちません。自社が大事にしている戦略に直結する指標を、少数でもよいので選び抜くことのほうが、はるかに有益です。
4.中小企業はこの指針とどう向き合うか
まずは「翻訳」して受け取る
ここまで読んでくださった経営者の方は、「うちの会社で、ここまで体系立てて整理する必要があるのだろうか」と感じているかもしれません。正直に申し上げれば、中小企業がそのまま指針どおりの開示を行う必要はありません。そもそも有価証券報告書を出す対象でもないからです。
しかし、指針が投げかけている問いは、企業規模を問わず通用するものばかりです。それを中小企業の言葉に「翻訳」して受け取ると、次のような問いに変わります。
・5年後、10年後、自社にはどんな人材が、どれだけ必要でしょうか。
・その姿と、いまの社員構成・スキルとのギャップは、どこにあるでしょうか。
・ギャップを埋めるために、どんな採用・育成・処遇の手を打つべきでしょうか。
・その手が打てなかった場合、自社の経営にどんなリスクが生じるでしょうか。
・進捗を確認するために、社内でどんな数字を毎月・毎年追いかけるべきでしょうか。
これらの問いに答えていく作業そのものが、改訂版の指針が示す「経営戦略と人材戦略の連動」を実践することになります。
社員と取引先・採用候補者に語れるかどうか
もう一つ、中小企業にとって見逃せない視点があります。それは、「労働市場」も人的資本情報を見ているという指摘です。指針では、就職活動中の学生の約4割超が、人的資本開示が充実している企業の選考優先度を上げると回答した調査結果が紹介されています。
中小企業の場合、有価証券報告書ではなく、自社のホームページや採用パンフレット、求人媒体での発信が主戦場になります。そこで「うちの会社の人材戦略はこうです」「3年後にはこんな人材を増やします」「そのためにこんな研修制度を整えました」と語れる会社と、賃金や休日数しか書けない会社とでは、応募者の集まり方が大きく変わってきます。人的資本の見える化は、採用力そのものを左右する経営課題なのです。
取引先・金融機関との関係でも効いてくる
また、最近では取引先の大企業や金融機関が、サプライチェーン全体での人的資本やサステナビリティへの取り組みを重視する動きが強まっています。大企業が自社の有価証券報告書で人的資本情報を開示する以上、その取引先である中小企業にも、人材育成や働き方の整備状況の説明を求める動きが広がっています。
金融機関の融資判断でも、経営者の高齢化や後継者問題、現場の技能継承といった「人材面のリスク」を確認する場面が増えてきました。人材戦略を言語化できる会社は、こうした場面で取引先や金融機関の信頼を得やすくなります。
5.今すぐ始められる5つのステップ
それでは、中小企業の経営者として、明日から何を始めればよいでしょうか。ここでは、改訂版の指針の考え方に沿って、無理なく始められる5つのステップをご提案します。
ステップ1 「あるべき姿」を一枚の紙に描いてみる
まずは経営戦略を改めて見直し、3年後・5年後の「あるべき組織・人材の姿」を一枚の紙に書き出してみてください。部門ごとに必要な人数、必要なスキル、求められる役割を、ざっくりとで構いません。完璧を目指す必要はなく、頭の中にある像を文字にすることが、まず大事な第一歩です。
ステップ2 現状とのギャップを洗い出す
次に、いまの社員構成と、ステップ1で描いた姿とのギャップを書き出します。「営業のデジタル化に対応できる人材が足りない」「現場リーダーになれる若手が育っていない」など、課題を具体的に言語化することで、打つべき手が見えてきます。
ステップ3 優先順位の高い課題を3つに絞る
ギャップを全部埋めようとすると、中小企業のリソースではすぐにパンクしてしまいます。経営に与える影響が大きく、かつ放置すると深刻なリスクになる課題を、3つほどに絞ってください。その3つに、ヒト・カネ・時間を集中投下するのが、限られた経営資源を活かすコツです。
ステップ4 数字で進捗を追える仕組みを作る
絞り込んだ3つの課題ごとに、「何の数字で進捗を測るか」を決めます。たとえば「現場リーダー候補の育成」が課題なら、「リーダー研修の修了者数」「主任への昇格人数」「3年定着率」などが指標になります。毎月、あるいは四半期ごとに、経営会議でこの数字を確認するだけでも、社内の景色が変わってきます。
ステップ5 社員と取引先・採用候補者に発信する
最後に、自社の人材戦略を「言葉」にして発信します。社員には経営方針説明会や朝礼で、取引先には会社案内や提案書で、採用候補者には自社サイトや求人媒体で、「うちの会社は、こういう人材を、こう育てています」と語れるようにします。言葉にして外に出すことが、社内の取り組みを引き締め、社外からの信頼を呼び込みます。
おわりに ― 人材を語れる経営者になる
今回の人的資本可視化指針の改訂は、表面的には上場企業向けの開示ルールの整備です。けれども、その底に流れているメッセージは、「これからの経営者は、自社の人材戦略を自分の言葉で語れなくてはいけない」というものです。
幸い、中小企業の経営者は、社員一人ひとりの顔と名前が見える距離で経営をしています。誰が何を得意とし、何に悩んでいるか、どんな成長を望んでいるかを、誰よりもよく知る立場にあります。この強みを、経営戦略と人材戦略の連動という観点で整理し直し、社内外に語れるようにする――それは大企業にはない、中小企業ならではの強さに変えていけるテーマです。
人的資本という言葉に身構える必要はありません。「自社の経営にとって、人材は何より大事な資本である」――そのシンプルな信念を、戦略と数字と言葉で社内外に伝えていく。それが、改訂版の指針を中小企業の経営に活かす最も本質的な道だと、私は考えています。
プロフィール

一般社団法人パーソナル雇用普及協会
代表理事 萩原 京二
1963年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒。株式会社東芝(1986年4月~1995年9月)、ソニー生命保険株式会社(1995年10月~1999年5月)への勤務を経て、1998年社労士として開業。顧問先を1件も持たず、職員を雇わずに、たった1人で年商1億円を稼ぐカリスマ社労士になる。そのノウハウを体系化して「社労士事務所の経営コンサルタント」へと転身。現在では、200事務所を擁する会員制度(コミュニティー)を運営し、会員事務所を介して約4000社の中小企業の経営支援を行っている。2023年7月、一般社団法人パーソナル雇用普及協会を設立し、代表理事に就任。「ニッポンの働き方を変える」を合言葉に、個人のライフスタイルに合わせて自由な働き方ができる「パーソナル雇用制度」の普及活動に取り組んでいる。
Webサイト:一般社団法人パーソナル雇用普及協会
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