中小企業の「シン人材確保戦略」を考える

第147回

定年前面談と就業規則の再説明──トラブルを防ぐ「儀式」の作り方

一般社団法人パーソナル雇用普及協会  萩原京二

 

はじめに:ある会社で起きた「除菌水80リットル事件」


新型コロナウイルスが広がり始めた2020年4月のことです。全国に緊急事態宣言が出され、多くの会社が社員に在宅勤務や自宅待機を指示していました。街から人が消え、消毒液やマスクが店頭から姿を消していた、あの時期を思い出してください。

ある会社に、60歳の定年を数か月後に控えた男性社員がいました。会社からは「外出を控えるように」と指示が出ていたにもかかわらず、男性は関連会社まで出かけていきます。目的は、会社が福利厚生の一環として社員に無料で分けていた除菌水をもらうことでした。

驚くのはその量です。男性は2日間で合計80リットルもの除菌水を持ち帰りました。2リットルのペットボトルに換算すれば40本分です。あまりの多さに、除菌水を渡した関連会社の側から「いくらなんでも多すぎる」と男性の勤務先に苦情が入ったほどでした。男性は当初「地元の福祉施設に届けるため」と説明していましたが、のちにその説明を翻し、「自宅で洗濯に使った」と認めました。

会社はこの一連の行動を会社のルール違反だと判断し、男性に対して「始末書を提出させ、厳重に注意する」という処分を行いました。会社が社員に科す処分にはいくつかの段階がありますが、これはその中で最も軽い部類のものです。

さて、この男性は定年を迎えたあとも、引き続き会社で働くことがすでに内定していました。本人が強く希望し、会社もいったんは了承していたのです。ところが会社は、先ほどの処分を理由に「定年後の再雇用の約束は取り消す」と通告しました。定年後の契約には「会社のルールに違反した場合は約束を取り消すことがある」という条件が付いていたためです。

男性は納得せず、裁判所に訴えを起こしました。約束の条件どおりに取り消しただけなのだから、会社に分があるようにも見えます。結果はどうなったと思われるでしょうか。

裁判所は、男性の勝ちと判断しました。外出はたしかに会社の指示に反していたし、大量の除菌水の持ち帰りも配慮を欠いていた。そこまでは認めたうえで、裁判所はこう述べたのです。「職場の秩序を乱したとか、たちが特に悪いといった、会社を辞めさせるほどの重大な違反とまでは言えない」と。

その後、この争いは上級の裁判所で話し合いによる解決となり、会社は男性に対し、支払われていなかった給料や慰謝料を含むお金を支払うことになりました。

ルール違反は事実だった。処分もした。契約の条件にも書いてあった。それなのに、なぜ会社が負けたのでしょうか。ここに、多くの経営者が気づいていない「思い込み」が隠れています。



1.経営者が陥りやすい3つの思い込み


前提となる仕組みを、少しだけ確認しておきます。現在は法律により、会社は希望する社員を65歳まで雇い続けられる仕組みを用意しなければならないことになっています。方法は3つあり、「定年の年齢そのものを引き上げる」「定年制度を廃止する」「定年後に契約を結び直して雇い続ける」のいずれかです。

国の調査によれば、従業員300人以下の会社では、3つ目の「契約を結び直して雇い続ける」方法を選ぶ会社が6割強と最も多くなっています。おそらく本コラムをお読みの経営者の多くも、この方法を採用しているはずです。

この方法には、会社にとって使い勝手のよい面があります。給料や勤務日数を定年前から見直せますし、1年ごとの契約更新にすることもできます。実際、専門家もこの柔軟さを利点として挙げています。ところが、その使い勝手のよさが、次のような思い込みを生みやすいのです。


<思い込みその1:「一年契約なのだから、更新しなければ終わりにできる」>

そうではありません。定年後に雇い続けることは、会社の「好意」ではなく法律に根ざした「義務」です。先ほどの裁判で裁判所が示した考え方は、こういうものでした。「再雇用を断れるのは、会社を辞めさせること、あるいは退職させることに匹敵するほど重いルール違反があった場合に限る」。

言い換えれば、正社員を辞めさせられないような理由では、定年後の再雇用も断れない、ということです。「契約だから自由」という感覚は、この場面では通用しません。


<思い込みその2:「処分歴があれば断る理由になる」>

先ほどの事件を思い出してください。男性は実際に処分を受けていました。会社は口頭の注意ではなく、正式な手続きを踏んで処分をしていたのです。それでも裁判所は「その程度では足りない」と判断しました。

問われるのは処分の「有無」ではなく、「重さ」と「積み重ね」です。始末書一枚で再雇用を断れるなら、会社はいくらでも理由を作れてしまいます。裁判所はそこを見ています。軽い処分が一度あっただけでは、断る理由として認められないのです。


<思い込みその3:「働きぶりの評価が低ければ断れる」>

この会社は裁判の中で、もう一つの主張をしていました。「男性の人事評価は、社内で定めた再雇用の基準に達していなかった」というものです。しかし裁判所は「評価はせいぜい人並みをやや下回る程度で、著しく悪いとは言えない」として、この主張も退けました。

「優秀とは言えない」「なんとなく物足りない」。その程度の評価は、断る理由にはなりません。評価を理由にできるのは、誰が見ても明らかに問題がある水準に限られると考えておくべきです。

なぜ裁判所は、ここまで働く側を手厚く守るのでしょうか。理由は単純です。60歳を過ぎてから再就職の道を探すことが、現実にはとても難しいからです。定年後の雇用を断られることは、その人にとって事実上、働く場を失うことを意味します。だからこそ裁判所は、会社側の判断に厳しい目を向けるのです。この事情を理解しておくと、以降の対策の意味がよく分かります。


3つのうち1つでも「そう思っていた」という方は、決して他人事ではありません。では、会社は何もできないのかといえば、そんなことはないのです。打つ手は十分にあります。ただしそれは、定年間際の駆け込みではなく、1年がかりの準備として打つ手です。次章から、その方法をお話しします。



2.なぜ「儀式」が必要なのか


定年後の雇用をめぐってトラブルになった会社を見ていくと、原因は突き詰めると二つに行き着きます。「認識のずれ」と「記録がないこと」です。

認識のずれとは、たとえばこういうことです。社員本人は「40年も勤めたのだから、定年後も今までどおりの待遇で働けるはずだ」と思っている。一方、会社は「定年後は給料も仕事も変わるし、場合によっては雇わない選択肢もある」と考えている。お互いに口に出さないまま時間が過ぎ、定年の直前になって会社がいきなり条件を突きつける。本人は「話が違う」と感じ、感情がこじれ、話し合いがつかなくなる。多くの争いは、この筋書きをなぞっています。

記録がないこととは、注意や指導を口頭だけで済ませてきた、ということです。「あの社員には何度も注意してきた」と経営者がいくら訴えても、紙が一枚も残っていなければ、裁判の場では「注意した事実はなかった」のと同じ扱いになりかねません。裁判所は、その場の言い分ではなく、残された記録を見て判断するからです。

実際、こんな場面を想像してみてください。長年経理を任せてきたベテラン社員の定年が2か月後に迫り、社長が「そういえば」と呼び出して、「定年後は給料が3割下がるから」と告げる。本人は絶句し、「今まで一度もそんな話は聞いていない」と憤る。社長は「世間ではどこもそうだ」と返す。翌日から職場の空気は張り詰め、本人は弁護士に相談を始める──。金額の妥当性以前に、伝え方と時期を誤っただけで、40年の信頼関係が数日で壊れてしまうのです。

この二つの原因を同時に解消する方法が、定年前の話し合いを「儀式」として仕組みにしてしまうことです。

儀式という言葉を使うのには、理由があります。儀式には三つの特徴があるからです。

第一に、決まった時期に、決まった手順で、必ず行われること。思いついたときにやるのではなく、カレンダーに組み込まれていることです。第二に、行われた事実が形に残ること。結婚式に婚姻届があるように、面談には記録が残ります。第三に、対象となる人全員に、同じように行われることです。

特に三つ目が大切です。特定の社員だけ面談を省いたり、逆に辞めてほしい社員にだけ念入りに行ったりすると、「あの人を辞めさせるための面談だった」と受け取られ、かえって争いの火種になります。全員に同じ儀式を行うからこそ、「会社は決まった手順を誠実に踏んだ」という事実が、会社を守る力を持つのです。

そしてもう一つ。儀式は、社員を守るものでもあります。早い段階から見通しを伝えられた社員は、生活設計を立て直す時間を持てます。突然の通告が人を怒らせるのであって、時間をかけた説明は、多くの場合、受け入れられるものです。



3.定年前面談の進め方──1年前から逆算する


それでは具体的に、どう進めればよいのでしょうか。定年の1年前から逆算した進め方を、順を追ってご紹介します。


<定年の1年前 対象者の洗い出しと「棚卸し」>

まず、1年以内に定年を迎える社員を一覧にします。そのうえで、一人ひとりについて、これまでの働きぶりの評価、過去の注意や処分の記録、本人の健康状態や担当業務を確認します。いわば人の「棚卸し」です。

ここで大事なことがあります。もし勤務態度に問題のある社員がいるなら、定年間際ではなく「今」注意することです。口頭で伝えるだけでなく、注意した日付、内容、本人の返答を簡単な書面に残してください。そして改善のための期間を与え、その後の様子も記録します。

先ほどの裁判例に関して、高齢者の雇用に詳しい弁護士は「口頭や書面で注意して改善を促すなど、慎重に対応すべきだ」と指摘し、対応の経過を記録に残すことを勧めています。裁判所が重く見るのは、処分そのものよりも、「注意し、改善の機会を与え、それでも改まらなかった」という経過なのです。この経過づくりには時間がかかります。だからこそ、一年前から始める必要があるのです。


<定年の6か月前 第1回面談──希望を聞き、ルールを説明する>

1回目の面談では、まず本人の希望を聞きます。定年後も働きたいか。働くとすれば、どんな働き方を望むか。週に何日働きたいか、どんな仕事を続けたいか、体力面で不安はないか。この段階では、会社の考えを押しつけず、聞き役に徹してください。

そのうえで、会社側から二つのことを説明します。

一つは、定年後の雇用に関する会社のルールです。就業規則、つまり会社のルールブックの中に、定年後の働き方について定めた部分があるはずです。多くの社員は、入社時に説明を受けたきりで、中身をほとんど覚えていません。この機会に、該当する部分のコピーを渡し、あらためて一緒に読み合わせをします。定年を迎える前に、就業規則をあらためて説明する場を設けることは、専門家も有効な方法として挙げています。

もう一つは、定年後は労働条件が変わる可能性がある、という見通しです。この時点で細かい金額まで示す必要はありませんが、「今までとまったく同じではない」ということを早めに伝えておくだけで、本人の心の準備が進み、後の話し合いが格段にスムーズになります。

面談が終わったら、必ず記録を残します。難しい様式は要りません。「面談記録」と題した一枚の紙に、次の項目を書けば十分です。実施した日時と場所。出席した人の名前。説明した内容。本人が話した内容。渡した書類の名前。そして、できれば本人に内容を確認してもらい、署名をもらいます。署名を嫌がる場合は無理強いせず、「本人は署名を控えた」とだけ書き添えておけばよいのです。


<定年の3か月前 第2回面談──具体的な条件を示す>

2回目の面談では、具体的な条件を提示します。給料はいくらか、週何日の勤務か、どんな仕事を担当してもらうか、契約の期間はどれくらいか。

ここでのコツは、条件だけでなく「理由」をセットで添えることです。たとえば「部下の管理という責任の重い仕事から外れてもらいます。その分、給料はこの金額になります」「体への負担を考えて、現場の作業は週3日にとどめます」というように、条件と理由を対にして説明します。人は、金額そのものよりも「説明がないこと」に腹を立てるものだからです。

本人から「もう少し日数を増やせないか」といった要望が出ることもあるでしょう。その場で即答できなければ、持ち帰って検討し、後日回答します。このやり取りも、1回目と同じ様式で記録に残します。

参考までに、伝え方の良い例と悪い例を挙げておきます。悪い例は「規則でそう決まっているから」「みんなそうしてもらっているから」という説明です。これは説明ではなく、通告です。良い例は「あなたにお願いしたい仕事はこれこれで、その内容に見合う給料として、この金額を考えています。どう感じますか」という伝え方です。結論は同じでも、本人の受け止め方はまったく違ってきます。40年勤めた会社との最後の交渉です。そこで受けた扱いを、人は忘れません。


<定年の1か月前 契約書を交わす>

最後に、定年後の働き方を定めた契約書を取り交わします。このとき、契約書を渡して署名をもらって終わり、にしないでください。大事な項目は、声に出して一緒に読み合わせをします。

特に「会社のルールに違反した場合、契約はどうなるか」という項目は、必ず一緒に確認しておきます。冒頭の裁判例でも、契約にこの種の条件は入っていました。それでも会社は負けました。条件を書くだけでは足りず、「その意味を本人に説明し、理解してもらった」という事実まで作っておくことが、本当の備えになるのです。

以上が一連の流れです。お気づきのとおり、この仕組みに特別な費用は1円もかかりません。かかるのは、面談の時間と、記録を書く手間だけです。それだけで、こじれれば何百万円にもなりかねない争いの芽を摘み、同時に、長年会社を支えてくれた社員に誠実に向き合うことができるのです。



4.やってはいけない3つのこと


最後に、この仕組みを運用するうえで、絶対に避けるべきことを3つ挙げておきます。


<その1:正社員より緩い基準で「辞めさせられる」仕組みを作ること>

「定年後の社員は、評価が普通以下なら契約を更新しない」といった、正社員を辞めさせる場合よりもハードルを下げた基準を社内で独自に作ること。これは、高齢者雇用に詳しい弁護士がはっきりと「やってはいけない」と指摘するところです。そのような基準は、いざ裁判になれば効力を認められません。むしろ「会社は不当な基準を作っていた」という不利な証拠にすらなりかねないのです。


<その2:口頭だけで済ませること>

繰り返しになりますが、記録のない注意は、なかったのと同じです。面倒に感じるかもしれませんが、数行のメモで構いません。日付と相手と内容。この三つを書いて残す習慣が、いざというとき会社を守ります。


<その3:人によって扱いを変えること>

辞めてほしい社員にだけ面談を増やす。気心の知れた社員は面談を省く。こうした運用のばらつきは、儀式の持つ力を台無しにします。手順を決めたら、全員に同じように適用する。例外を作らないことが、公平さの証明になります。



5.よくある質問


この話を経営者の方にすると、決まって出てくる質問が3つあります。最後にお答えしておきます。


質問1:「うちは社員十人の小さな会社です。そこまで形式ばったことが必要ですか」

必要です。むしろ小さな会社ほど必要だと考えてください。大きな会社には人事の担当部署があり、手続きの型ができています。小さな会社は社長と社員の距離が近く、「言わなくても分かっているだろう」という甘えが生まれやすい。その甘えこそが、認識のずれの温床です。面談といっても、応接室で30分、お茶を飲みながら話すだけで構いません。大事なのは、決めた手順を踏むことと、紙を一枚残すことです。


質問2:「面談で本人が『定年後は働かない』と言った場合はどうすればよいですか」

その意向を面談記録に残したうえで、退職に向けた通常の手続きを進めてください。ただし一点だけ注意があります。後になって本人が「やはり働きたい」と心変わりする場合があることです。記録に「本人は継続を希望しないと述べた」と残っていれば、会社は落ち着いて対応を検討できます。記録がなければ、「会社が働かせないよう仕向けた」と言われたときに反論のしようがありません。ここでも記録が会社を守ります。


質問3:「すでに定年まで半年を切っている社員がいます。もう手遅れですか」

手遅れではありません。理想の日程どおりでなくても、今からできることを順に行えばよいのです。まず就業規則の説明と希望の聞き取りを行い、記録を残す。次の面談で条件を示し、契約前に読み合わせをする。間隔が詰まっても、手順を踏んだという事実には大きな意味があります。何もしないまま定年当日を迎えることだけは、避けてください。



おわりに──「切りにくい制度」ではなく「設計次第の制度」


定年後の雇用の仕組みは、たしかに会社が自由に打ち切れるものではありません。しかし、だから厄介な制度だ、ということではありません。

1年前から順を追って話し合い、お互いの認識を合わせ、記録を残す。この儀式を整えた会社では、ベテラン社員は先の見通しを持って安心して働き続けることができ、会社は長年培われた技能や取引先とのつながりを、無理なく次の世代に引き継ぐことができます。争いを防ぐ仕組みは、そのまま人を活かす仕組みでもあるのです。

人手不足が深刻になる中で、60歳を超えた社員の力は、中小企業にとってますます大切な財産になっていきます。国も、70歳まで働ける環境づくりを会社に求める方向へ進んでいます。定年後の雇用を「仕方なく続けるもの」と捉えるか、「会社の戦力を保つ仕組み」と捉えるかで、この先の会社の体力は大きく変わってくるはずです。

まずは、自社の就業規則の定年に関する部分を読み返すこと。そして、1年以内に定年を迎える社員のリストを作ること。この二つから始めてみてください。面談の設計や記録の様式づくりに迷ったら、顧問の社会保険労務士に相談されることをお勧めします。


 

プロフィール

一般社団法人パーソナル雇用普及協会
代表理事 萩原 京二

1963年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒。株式会社東芝(1986年4月~1995年9月)、ソニー生命保険株式会社(1995年10月~1999年5月)への勤務を経て、1998年社労士として開業。顧問先を1件も持たず、職員を雇わずに、たった1人で年商1億円を稼ぐカリスマ社労士になる。そのノウハウを体系化して「社労士事務所の経営コンサルタント」へと転身。現在では、200事務所を擁する会員制度(コミュニティー)を運営し、会員事務所を介して約4000社の中小企業の経営支援を行っている。2023年7月、一般社団法人パーソナル雇用普及協会を設立し、代表理事に就任。「ニッポンの働き方を変える」を合言葉に、個人のライフスタイルに合わせて自由な働き方ができる「パーソナル雇用制度」の普及活動に取り組んでいる。


Webサイト:一般社団法人パーソナル雇用普及協会

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