英国の工場で生産計画の責任者として活躍していた星久人さん。突然、ソニー創業者の盛田昭夫さんの補佐役に任じられ、37歳で帰国。盛田さんとともに過ごす毎日がはじまった。
--盛田さんとの仕事は、どんな感じでしたか
「1980年代前半。メールどころか携帯電話もない時代です。盛田さんはいつもテープレコーダーを持ち歩いていて、思い付いたことをどんどん録音しました。毎朝出社するとテープが秘書に渡されます。『TV事業部の○○に言っとけ。昨日首都高速を走っていたら、ちょうどいい建物があった。あそこにソニーのネオンサインを置いたらすごくいいんじゃないか』『次。渉外部の星君に言っとけ。経済産業省の○○局長と至急会いたいからアポイント取ってくれ』-こんな具合です。秘書がメモにまとめ、9時前には全担当者に連絡。盛田さん直々の指示です。皆が意気に感じて最優先で対応していました」
--星さんの担当は
「最初の配属は“国際通商室”でした。盛田さんの財界活動の、海外に関する部分の補佐です。部署はその後徐々に統合され、国内外の区別がなくなり、最終的には“渉外グループ”という名称になりました。私は秘書部長を経て特別理事・秘書役になりました。盛田さんとは93年に倒れられる前日まで、10年間一緒に仕事をさせていただきました。その後、大賀典雄さんから中鉢良治さんまで補佐役を務めました」
--仕事の内容は
「情報収集が一つの大きな仕事でしたね。毎朝7時45分頃出社し、新聞8紙やダイヤモンド、プレジデント、東洋経済、エコノミストなど、さまざまな雑誌に素早く目を通し、必要と思われる記事を切り抜いて8時半までにトップの机に置きます。トップは全ての報道や本を読むことはできません。だから代わりに読む。また、経団連や各種の式典などで発言の予定があるときは、関連事項を調べて情報を整理します。時には『こんな話をしては』というスピーチ案を用意して事前に渡しました。もちろん、それらの資料を使うかどうかはトップの判断です。補佐は考えうる限り、できることを全て行う。そのように取り組んできました」(つづく)
【プロフィル】星久人 ほし・ひさと 東大法卒。元ソニー特別理事・秘書役。盛田昭夫氏の補佐役となり、以後ソニーの歴代トップを支えた。ベネッセホールディングス特別顧問。67歳。東京都出身。