穏やかなることを学べ

第26回

“助けることが難しい命”を助ける ~難病“拘束型心筋症”に対する補助人工心臓の新たな術式治療法、女子医大が国内初の実施~

イノベーションズアイ編集局  編集アドバイザー 鶴田 東洋彦

 

”難治性心不全”の最新治療を医療メディアに報告する東京女子医大の市原有起医師(右)と新川武史教授(左)

未だに原因すら不明の難病

還暦を過ぎたあたりからだろうか、友人たちと会うたびに出るのは健康の話題である。自身も現役の記者時代に「縦隔膜腫瘍」と言う胸内腫瘍を患い、一昨年には膀胱がんを手術するなど辛い思いをしただけに、身につまされる思いがするが、話ががんと心臓病に及ぶと皆、深刻な表情に変わる。

ところが、がんに比べ心臓病については意外と知識が薄い。「日本人の二人に1人ががんにかかる時代」と、がんの怖さについては保険会社がテレビCMで繰り返す影響だろうが、実は心臓病の罹患者の方が全国で約120万人とがんの100万人を上回っているし、死亡率もがんに次いで高い。怖い病気である。

とくに罹患率が高いのは心臓が様々な理由で肥大や拡張を起こして、心臓の機能に障害が出る心不全である。そのうち病気の原因が主に心臓の筋肉にある心筋症は、症状が極端に悪化すると心臓移植しか治療法がない。その拡張型や肥大型と呼ばれる心筋症の中でも、拘束型という心筋症は遺伝的要素があるものの未だにその正確な原因がわからず、この時代にあっても予後延命の期待が持てない“超”の付く難病である。

この拘束型心筋症が怖いのは、心臓の肥大も拡張もなく「一見すると心臓の動きが正常に見えてしまう」状態のまま、進行すると心不全から臓器障害、心臓突然死を引き起こすことだ。心筋が硬く広がりにくいため、病状が進むと血液を全身に送り出すことが出来ず、多臓器不全になってしまう。医療関係の本を読み込んでも「有効な治療法もなく原因も発症メカニズムも詳しく分かっていない」とある。


心臓移植まで待てない命

心臓移植だけが唯一の治療法だが、重篤化したらすぐに手術というわけにはいかない。臓器を提供するドナー(臓器移植の提供者)を待たねばならないが、日本の場合は欧米と比べてその数は極端に少ない。2010年に臓器移植改正法が緩和されて家族の承諾があって提供可能となったが、それでも状況は大きく変わっていない。気の毒なのは、この病気が小児に多いことで、薬物治療で移植手術を待っている間に亡くなってしまうケースが結構あることだ。

心臓移植待機中に症状が深刻となり、薬物治療が限界に至った場合は、循環を安定させる左室補助人工心臓(LVAD)を左心室に装着し、ポンプで血液を全身に送り込んでおかねばならない。LVADによって心臓を休ませ、肝臓や腎臓など他の臓器の機能を維持しながら、移植を待つということになる。

だが、この分野の専門家である東京女子医科大学の市原有起医師によれば「拘束型心筋症が重症化するとLVADを使っても血液を全身に送ることが難しくなる」と指摘する。「拘束型の場合は心筋が硬く拡張障害を起こしているため、一般的に左心室が狭い。LVADを装着しても、上手く血液を汲み取れず全身に送れないことが多い」と言うのだ。そうなるともう手遅れである。

では、この難問を克服し全身に十分に血液を送るにはどうすればいいのか。東京女子医大のチームが着目したのは左側の心室ではなく心房である。「左心房から人工心臓を使って安全に脱血し、全身に送ることが出来れば、心臓移植までを安全に待機することが可能となる」。

日本の場合、心臓移植後の10年生存率は9割近く、15年後でも80%と世界的にも群を抜く水準である。要するに移植にまでこぎつければ、命を失う危険は大幅に低くなるのだ。市原医師によれば「移植までの間をこの治療法で橋渡しすることが出来れば、拘束型の患者でも命を救える」という。


左心房からの脱血によるLVAD植込み術が成功

現在、この手術を実際に行ったのは全国の医療機関の中で女子医大のみである。海外では20件ほどの施術例があるが、日本の医療機関が踏み切っていないのは手術そのものが難しい上に、左室が小さく拡張障害を伴っている症例では、多くの医師がLVADの装着に躊躇していることが背景にある。だが、女子医大では左室の手前にある左心房から脱血する形でLVADを装着し、血液を全身に送り出す手術を実施、先日その成果を報告した。

最初の手術は2023年10月。実際に執刀した新川武史教授によると、拘束型心筋症で薬物治療を続けながら入院して心臓移植を待つ13歳の小児に実施した。実施後2年たって現在は驚くべきことに通学しながら自宅で心臓移植を待つまでに回復しているという。さらに今年7月には、成人疾患を担当する市原医師が左室が小さく拡張障害を呈していた拡張相肥大型心筋症の57歳の患者にも、同じ左房脱血でLVADを装着する手術を行い、その患者は既に退院して通常生活を送りながら移植を待つ状態という。

点滴での強心薬投与を続けながら、辛い入院生活を送らなくても自宅で移植を待つことが出来る。しかも学校や仕事場にまで通える。患者にとっても家族にとっても、おそらく想像しえなかったことだろう。今後の経過次第ではあるが、この取り組みが心臓移植を待ち焦がれている患者にとって大きな希望であることは間違いない。


一縷の望みが本当の希望に

日本の今年の心臓移植実施数は既に120件を超え過去最高の水準に達する。ただLVADを装着しながら、移植を待つ重篤な心臓病の患者も多い。移植さえすれば助かる命が、移植を待っている間に失われるのは本当に悲しい事だ。その意味で、重度の心疾患で極端に死亡率が高い拘束型心筋症に、左房脱血を活用して全身に血液を送りながら移植を待つという治療領域に踏み込んだ意義は大きい。

「臓器移植法が改正されドナーの提供は年々増加傾向であるが、まだ、圧倒的に移植を待つ患者さんが多い。LVADを付けたくても付けられない病態の方もいる。助かる命を一人でも増やしたいという思いがある」と市原医師。「最初は戸惑いがあったが標準化し得る術式と感じた。是非、全国的に広がって欲しい」と望んでいる。

確かにこの療法が確立されれば、前述した二人のケースのように、自宅生活を送りながら心臓移植を待つということも可能となる。女子医大の取り組みはその第一歩だろう。しかもこの手術は、拘束型心筋症より症例が多い「拡張相肥大型心筋症」でも実施された。汎用性があるのだ。

全国には、死というものを意識しながら半ば縋るような思いで移植を待ち焦がれる重症の心臓病患者は多くいる。その家族の負担の重さも想像に難くない。この左心房への人工心臓の埋め込みが新たな術式として確立し、全国に拡大していくことを期待したい。市原医師の話を聞きながら、改めてその思いを強くした。

 

プロフィール

イノベーションズアイ編集局
編集アドバイザー
鶴田 東洋彦

山梨県甲府市出身。1979年3月立教大学卒業。

産経新聞社編集局経済本部長、編集長、取締役西部代表、常務取締役を歴任。サンケイ総合印刷社長、日本工業新聞(フジサンケイビジネスアイ)社長、産経新聞社コンプライアンス・アドバイザーを経て2024年7月よりイノベーションズアイ編集局編集アドバイザー。立教大学、國學院大學などで「メディア論」「企業の危機管理論」などを講義、講演。現在は主に企業を対象に講演活動を行う。ウイーン国際音楽文化協会理事、山梨県観光大使などを務める。趣味はフライ・フィッシング、音楽鑑賞など。

著書は「天然ガス新時代~機関エネルギーへ浮上~」(にっかん書房)「K字型経済攻略法」(共著・プレジデント社)「コロナに勝つ経営」(共著・産経出版社)「記者会見の方法」(FCG総合研究所)など多数。

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