第5回
見過ごされた起点、『家族』の承継という最重要課題
FORTUNA GROUP株式会社 村田 弘子
はじめに:なぜ、承継の議論は「経営」と「資産」に偏るのか
世界で最も多くの「100年企業」が存在する国、日本。その数は3万7,000社を超え、他の追随を許さない圧倒的な実績を誇ります。この驚異的な持続可能性の根幹をなしてきたのが、世代を超えてのれんを守り抜いてきた無数の「ファミリービジネス」であることは、論を俟たないでしょう。その存在は、日本経済の強靭さを支える揺るぎない礎です。
しかし、その足元で今、「後継者不在」という静かな、しかし深刻な構造問題が進行しています。事業は順調であるにもかかわらず、そのバトンを渡すべき相手がいない。この「承継の断絶」というパラドックスは、なぜこれほどまでに拡大してしまったのでしょうか。
これまで事業承継の議論は、そのほとんどが「経営(いかに事業を成長させるか)」と「資産(いかに税負担を抑え株式を移すか)」という、いわば“HOW”の側面に集中してきました。もちろん、それらは避けて通れない重要なテーマです。
しかし、どれほど精緻な経営計画や完璧な節税スキームを準備したとしても、承継が円滑に進まないケースは後を絶ちません。ここに、私たちはひとつの可能性を考察すべきではないでしょうか。それは、これまで議論の「起点」そのものが見過ごされてきたのではないか、という可能性です。
これまでの連載では、事業承継における様々な「親の心得と対処法」について論じてまいりました。今回はその中でも、これまで「プライベートな問題」として意図的に距離を置かれがちだった、事業承継の最も根源的な要因に光を当ててみたいと思います。
それは、「事業承継の成否は、後継者の『結婚』、すなわち人生で最も重要なパートナーシップの構築にその端緒があるのではないか」という、極めて重要な視点です。
事業承継の羅針盤「3円モデル」が示す、承継すべきものの順序
この複雑なテーマを構造的に理解するため、まずはファミリービジネスを分析するための世界標準フレームワーク、「3円モデル」をご紹介します。これは、ファミリービジネスが、「ファミリー(家族)」「オーナーシップ(所有)」「ビジネス(経営)」という、三つの重なり合う円(システム)で構成されることを示したものです。
このモデルを事業承継の文脈に当てはめると、次世代へ引き継ぐべきものは、この三つのシステム全てであることが分かります。そして、この承継プロセスには、極めて重要な「原理原則」とも言うべき順序が存在します。
・家族・家庭の承継
・資産の承継
・経営の承継
なぜ、「家族」がすべての起点となるのか。それは、ファミリービジネスの競争優位性の源泉、例えば「長期的視点での経営判断」や「危機における一族の結束力」といった無形の資産が、すべては健全で安定した「家族」という土台の上で育まれるからです。この土台がなければ、優れた経営手腕も、潤沢な資産も、その力を十分に発揮することはできません。
にもかかわらず、多くの承継の議論は、「3.経営」や「2.資産」という、いわば家屋の設計から始まってしまってはいないでしょうか。土台が不安定な土地に、立派な家を建てようとしているのと同じかもしれません。まずは、承継の議論の起点を、すべての土台である「家族の承継」に置くこと。これが、本連載を通じて私が最もお伝えしたい視点なのです。
「家族の承継」の核心と後継者の『結婚』という経営課題
では、「家族を承継する」とは、具体的に何を意味するのでしょうか。
それは、次世代において、ファミリーの新たな中核を形成し、その価値観を維持・発展させていく配偶者を「新しい家族をなす異分子」として歓迎し迎え入れることに他なりません。そして、その創造プロセスの中核を担うのが、後継者の「結婚」なのです。
後継者の配偶者は、単にプライベートな家族の一員という立場にとどまりません。次世代のファミリーシステムを後継者と共に築く「共同構築者」であり、幾多の困難に直面する後継者を最も近くで支える最重要のステークホルダーと言えます。
この視点は、決して単なる情緒的なものではありません。近年、経営学の世界でも、後継者の結婚がファミリービジネスの承継に与える影響が、重要な研究テーマとして注目されています。
例えば、Lixia Wangらが発表した学術論文『Does the well-matched marriage of successor affect the intergenerational inheritance of family business?』は、このテーマを正面から扱った研究の一つです。この論文の中では、「後継者の結婚は、ファミリービジネスの世代間承継に大きな影響を与える」ことが実証的に示唆されています。つまり、後継者がどのようなパートナーを選び、いかなる関係性を築くかという、これまで「私的領域」とされてきた事柄が、事業承継後の企業業績にまで影響を及ぼす重要な経営ファクターであることが、学術的にも明らかにされつつあるのです。
配偶者選びは、極めて重要な経営課題である。こうした世界の潮流を踏まえたとき、私たちは日本のファミリービジネスの現状をどう捉えるべきでしょうか。
それは、日本の創業家の多くが、この最も重要なテーマについて、親子で真剣に話し合う機会を逸してきた、という現実です。「結婚は個人の自由だから」という一見物分かりの良い態度の裏で、事業の未来を左右するほど大切な対話が、なおざりにされてきたのではないでしょうか。
創業者や現経営者は、後継者に「立派な経営者になれ」とは言います。しかし、「その重責を誰と分かち合い、どのような家庭を築き、我がファミリーの未来をどう繋いでいくのか」という、人間としての根源的な問いを、共に考え、語り合う関係性を築いてこなかった。このコミュニケーションの欠落こそが、日本の事業承継をつまずかせる、根深い要因の一つだと考えられます。
事業承継結婚という戦略的視点の提案
この根深い問題を乗り越えるために、私は「事業承継結婚」という新しい視点を提唱しています。
これは、家柄や資産だけを目的とした、旧来の「政略結婚」とは全く異なります。そうではなく、後継者自身が、事業承継というミッションを深く理解した上で、その険しい道のりを「共に歩み、支え合えるパートナー」を、自らの主体的な意思で選び取る、という極めて能動的なパートナーシップ戦略を意味します。
そのためには、何よりもまず、創業家の中に「対話の文化」を育むことが不可欠です。それは一朝一夕にできることではなく、後継者の幼少期から始まる、意図的な関係づくりが求められます。
幼少期・思春期:価値観の共有
事業の意義や、家族が大切にしてきた価値観を、日常の会話の中で自然に伝える時期です。後継者が自らのルーツに誇りを持つための土台を築きます。
青年期:使命の共有
後継者が承継を意識し始めたら、経営の喜びだけでなく、その重圧や孤独についても率直に語り合うべきです。そして、後継者がどのような家庭を築きたいか、耳を傾けるのです。
結婚を意識する時期:ビジョンの共有
「どのようなパートナーとなら、君が築きたい家庭と、会社が目指す未来の両方を実現できると思うか」。スペックではなく、ビジョンから対話を始めることが大切です。
このような対話が欠落したままでは、後継者は「家」の論理と、自らの人生との間で引き裂かれ、孤独を深めてしまいます。その結果が、「親の会社は継ぎたくない」という、心と経営の痛ましい断絶に繋がっていくのです。
おわりに:すべての承継は「家族」という土台から始まる
本稿では、日本の事業承継問題の根源に、これまで見過ごされてきた「家族の承継」、とりわけ後継者のパートナー選びに対する戦略的視点の欠如があるのではないか、という問題提起をさせていただきました。
「経営」と「資産」の承継プランも、その土台である「家族」が揺らげば、砂上の楼閣になりかねません。次世代の家族を形成する後継者の配偶者は、企業の未来を左右する、隠れた、しかし最も重要なステークホルダーなのです。
このテーマを「プライベートな問題」として思考停止するのではなく、ファミリー全体の未来を創る経営課題として捉え、親子で対話する文化を育むこと。それこそが、100年企業を200年企業へと繋ぐ、確かな一歩となるのではないでしょうか。
プロフィール
FORTUNA GROUP株式会社
代表取締役 村田 弘子(むらた ひろこ)
一般社団法人事業承継結婚推進機構代表理事
FBAAファミリービジネスアドバイザー資格認定証保持者
創業70年の老舗会計事務所の2代目妻として、3代に渡る顧問先との深い信頼関係の中で、事業承継における婚活支援の必要性を実感。マッチングアプリ全盛の中、伝統的な「お見合い」の価値を再認識し、事業承継の専門家と協力して、日本のファミリー企業の親族内承継を支援。「個人の幸せと事業承継の両立」をミッションに、全国に専門仲人を養成し、家業の永続した発展と地方創生に尽力している。事業承継学会、海外シンポジウムでは、少子化の中での事業承継の解決策を毎年発表し、各地の経営者の会では、経営者が知っておくべき後継者の婚活事情について講演。著書に「事業承継結婚という家族戦略」「絶対に間違ってはいけない経営者の妻選び」「娘が大学を卒業したら親がすぐに読むべき婚活の教科書」他
Webサイト:FORTUNA GROUP株式会社