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48歳法務奮闘記

第5回

初めてのNDAレビュー

ユニタスグローバル株式会社  間庭 一宏

 

「わぁーもう、やだぁー。なんだよこれ。ヤダ。ヤダ。ヤダ。みんな嫌い!もう、仕事しない!グレてやる!」


何事もなく平和裡にその日が終わろうとしていた、ある日の黄昏時である。オフィスに叫び声が響き渡った。


実は、これは我が社にとってはごく日常的で牧歌的とも言えるシーンなのであり、これに驚く者は一人としておらないどころかこれは物事が上手く進捗している証であり、むしろ職場には安堵感さえ漂った程である。叫び声の主は徳永奈緒子セールス・マネージャーである。当社の設立20周年記念ミュージックビデオでは赤い革ジャンでワイルドにその身を包み、持ち前の華やかさを引き立ててリード・(エア)ギターをバチッと決めている。


仕事でも成果を追い求めて自身を追い込んでいる時の顔つきは、その麗美さを一層際立たせ近寄りがたいものすら感じさせるのであるが、時に思い通りに行かないときには言動がロックに走る。驚く者はおらぬとは書いたが、やはり通り一遍の事態収拾プロシージャーは踏まなければならない。先陣を切ったのは徳永の後ろに座を占めるネットワークエンジニアである。名をチャンス・ミリガンという。


チャンス:ドウシタ?


徳永:このお客さん、見積り出して1ヶ月なのに今更NDA結ばないとダメだなんて言ってきたんだよ。もう、こっちは一生懸命お客さんの無理にも応えてきたのに!注文書じゃなくてNDAだよ。信じられる?ねえ、チャンス、サイテーて英語でなんて言うの?ブルシット?


「ソレハ、ビジネスで言っちゃダメ」と首をすくめ苦笑いしているチャンスには目もくれず「ブルシットめ。ブルシット・ジョブ…」と、これは実は私の愛読書のタイトルでもあるのだが、それを知ってか知らずか「Bullshit Job」と題目を唱えつつ、今度はやおら中村事業戦略部長に向かってマスク越しに大声で呼ぶ。


徳永:中村さんちょっといい?例の見積り回答待ちだったお客さん、発注の前にNDA結びたいってドラフト送ってきた。アメリカ(筆者注:当社の親会社、米国INAP社のことである)への報告も近いし、月末までにこの案件クローズしないと、奥野さん(当社CEOのことである)、また言動がロックしちゃうじゃない?さっさとこのNDAやっつけちゃいたいんだよね。


いや、言動がロックするのはあなたでしょう。私は心の内でつぶやいた。


中村:そうだね、早急に法務レビューして送り返そう。それにしても今更NDAは少々ひどいけど、リモートワークのせいでどこの会社も担当者が孤立しちゃってるからね。


徳永:やっぱり、和と空気(※)がないと仕事できねえんだよなぁ。


(※)筆者注
日本の組織に於ける意思決定はすべて和と空気によってなされており、俗に謂う決裁権者に決定権はないというのが当社CEOの持論であり、ひいては当社の考え方として浸透している。


徳永:ねえ間庭さん、これ明日の昼までに見てもらえる?時間空けたくないんだよね。


待ってました!私は「はい、任せてちゃぶだい」と下手な駄洒落を添えて快諾した。かくして私にとって記念すべき初の法務実務とも言える、NDAレビューのお仕事が舞い込んだのであった。


さて、NDAとはNon-Disclosure Agreementの略で、日本語では、守秘義務契約、機密保持契約などと称される。契約の当事者がお互いの秘密性のある情報についてそれを第三者に漏らさないことや、おかしな使い方をしないことを約する契約である。私もNDAは過去に何度も見てはいる。しかし、これを法務担当者としてレビューしたことは嘗てない。期限は明日の昼までである。私はこの日はリモートワークで自宅にいるCEOに相談すべく、Teamsで繋いだ。果たしてCEOは自宅にいた。事の次第を話し、明日の昼までにレビューしましょうよと誘ったが、頗る面倒くさそうである。面倒くさいだけではない。私の法務実務デビューの機会が、お流れになる危険すらあったのである!


CEO:NDAなんてどうでもいい契約なんだよ。漏れて困る情報なんてお互いにないし、もしあったら出すわけないし。まったく猫も杓子も馬鹿の一つ覚えみたいにNDA、NDAって言うけどもっと本質を考えろっての。それ、断れないの?…。意味ないよ。それよりさ、設立20周年記念曲のセカンド・バースのドラムの落し、どうする?バスドラムだけ3連符で踏むのってあまりピンとこないんだよね。練習した?できるようになったの?


「そうそう、あの足の3連符、練習したのですがまだできません…」と答えかけて、いかん!CEOの調子に乗せられるな!私は我に返った。NDAを断るなど、まるで現実逃避である。徳永に断りましょうなどと進言したらぶん殴られるに決まっている。私は必死に説得を試みた。「ドラムは練習してます。NDAですが奥野さんはいつも、法務担当はクライアントを意識せよと言ってるじゃあないですか。営業部の皆さんは、我々にとってクライアントですよ。クライアントが明日までに見てくれろと言うんだから、これはやらないといけません。ね、私がまず全文を読んで、結果をメールしますから、ね」と言うと、渋々承諾した。最早小児と変わらぬ。最後に「NDAで注意して見るべき項目は、契約の目的、秘密情報の定義、秘密情報からの除外条項、秘密情報に対する守秘義務と目的外利用の禁止、契約期間と秘密情報の守秘期間の関係、契約終了後の存続条項、あと、秘密情報の管理方法に不可能なことが書かれていないか。そこを注意してみて」とまくし立てて、彼はぷつんと退室してしまった。メモをとる間とてなかった。


その後、私は問題のNDAの一字一句をば見逃すまいと、全文を音読した。リモートでCEOが最後に言い置いた注意事項が気になるが…まあ初心者の私が契約書をかいつまんで読むなど、おこがましいこと甚だしい。全文を音読し終え、以下のレポートをばまとめた。


「読んだところ、全体的に意地悪な感じはなさそうです。なかなか良さそうな会社さんのようです。紛争が起きたら『甲乙誠意をもって協議の上解決』しましょうと言ってくれているし、うちの事業所に立ち入る場合にも『安全管理と秩序維持に努め』てくれるそうです。契約してよいと思います」


午前7時、戦闘開始。CEOの起床時間である。そして私が万年床で目を覚ますと同時に、会社支給のiPhoneでメールをチェックする時刻でもある。私はNDAのレポートをCEOに投げると、返事はすぐに来た。「な、なにそれ。お友達と仲良しクラブしてるんじゃないんだよ。今日の昼までだっけ。10時頃までには出社するからドラフトのファイル送っておいて」とのことであった。私の洞察は的を外れ、CEOをして朝からずっこけさせてしまったようである。



CEOが出社してくるのと「間庭さんちょっと来て、NDAの件」と呼ばれたのが同時であった。私は待ってましたとばかりスキップでCEO席に馳せ参じると、CEOはパソコンのモニターいっぱいに、最大フォントでそのNDAを開いていた。CEOは目が悪いためゴキブリ大のフォントでないとよくよく契約書が読めぬのである。


間庭: 仲良しクラブと言われた、私のレビュー結果についてですが…


…答えがない。まるでモニターに吸い付かんばかりに画面を見ながら、しかし凄い勢いでNDAをスクロールしている。これは彼が集中モードに入っている証拠である。その間、僅か1、2分であろうか、NDAの一番下までスクロールし終えると、彼はため息を一つついて呟いた。


CEO:ダメだねこれ。もとはM&Aの検討用のものだったのだろうけど、その後、何度も修正が加えられたみたいで壊れてる。


「あのう、私のNDA感想文は…」最早読書感想文に成り下がってしまった。しかし、私のことは眼中にないようで、CEOはうわ言のように続けた。


CEO:第1条の目的は、両当事者間の資本取引の検討になっているし、第2条の守秘情報の定義も、「両当事者間で本資本提携の検討を行っている事実も守秘情報に含まれる」なんて書いてある。第8条の存続条項には肝心の守秘義務や目的外利用の禁止が規定されている第3条が入っていない。条ズレしてるから存続条項のレファレンスもズレちゃってるんだ。その他もボロボロだね。 同じことを違う言い方で言っているダブった条文もあるし…


私には何を言っているのか皆目分からなかったが、少なくとも私の「NDA感想文」の内容にかすってすらいないことは分かった。


間庭:ええと、奥野さん。今、これ全部読んじゃったんですか?


CEOは当然至極でしょとばかりに「ざっとね」と答えると、信じられないことを言う。


CEO:ところで間庭さん、法務担当者は自分のコメントをメールで説明したりしないから。法務は修正記録で会話するわけ。それでコミュニケーションが成り立たない奴は失格ね。


「ええ?でもこれ破綻していてボロボロなんですよね。うちの雛形使うように頼みましょうよ」締め切りの正午まで残すところ1時間半、私なりの現実解を提案した。するとCEOの目の色がさっと変わった。


CEO:あり得ない。相手のドラフトにコメントできないから自社の雛形を使いましょうなんて、最低の法務の言うことでしょう。それで、即詰みの負けでしょう。


呆然としている私を残して、「いいや、他の仕事してて。できたら呼ぶから」と言い残していつものようにダイエットコークを買いに行ってしまった。


へのへのもへじを書いて消閑すること小一時間、CEOからメールが届いた。見れば件名なし、本文には「見て」とだけ書いてあり、添付ファイルが付いている。その添付ファイルを開いた次の瞬間、私は衝撃のあまりのけぞった。見るも無残に修正記録で真っ赤になったNDAが現れたからである。

間庭:げげげ、これを送り返すつもりですかい?修正だらけで真っ赤ですよ。
CEO:そうだよ。
間庭:でも、こんなにけんもほろろに修正して返してしまったら、相手が怒って折角のいい案件が流れちゃいませんか!? そしたら徳ちゃん、ホントに武道館から動画配信ライブしちゃいますよ。


ここで初めてCEOは笑った。


CEO:あのね、間庭さん、僕はこれまで、それはもう数え切れない程の契約書ドラフトを修正記録で真っ赤に染め上げてきましたよ。でもそのせいで相手が怒ったとか、交渉決裂したなんてことは、一度だってない。契約交渉というのは、マウントの取り合い。それで、相手がどれくらいできるか、取引に値する相手か、あるいはどういったスタンスでこの取引に臨むかを決定する。なめられたら終り、その後はどうなる?ビジネス面でどんどん押される。正直に言ってNDAなんてどうでもいいんだよ。秘密情報なんて、本当に秘密ならお互い出さないんだからさ。でも交渉はやる以上負けられないし、負けない。


私は諒解した。これは、知的な闘いなのである。この神聖なる土俵に立つ者は、相手のためにも、持てる全知を以てして闘わねばならぬのである。仲良しクラブの如き態度で臨んでは、相手に無礼極まりない。私は自信を持って、この真っ赤な血の色に染まったNDAドラフトを徳永に送り返した。クライアントである徳永の希望納期通り、昼前に。


数日後、修正ドラフトを受け取った相手側からお返事をいただいた。「御社ご意見確認いたしました。迅速な対応ありがとうございました」という有難いお言葉をいただき、真っ赤だった修正記録がすべて了承・反映された最終版が添付されていた。徳永からは「きゃー、間庭さん素敵。ありがとう、さすが世界制圧を目指す法務だね。愛してるぅー」などと先日とは打って変わって無邪気な笑顔で感謝される。…実を言うと、先方に真っ赤なNDAを送ってからというもの知的な闘いとは言え、どうなることかと内心はヒヤヒヤしていたのである。しかしその結果は、CEOの言う通り問題なく進んだどころか大成功であった。ここで初めて私は安堵すると同時に、仕事でしか味わうことのできないあの達成感と幸福感に包まれ、昇天した。


さっそくCEOに報告すると「ふっ、背中が煤けてるぜ  」と意味不明なことを言うのでサブカル通で本コラムのイラスト作者でもある吉川技術部長に聞いたところ、40年近く前に流行った『麻雀飛翔伝 哭きの竜  』というマージャン漫画の、主人公の決めセリフだそうな。


CEO:まったく、こういうのって誰のためにやってるのかわからなくなるよね。本来、法務担当というのは、自社の利益を守るために頑張るんだよ。でもこれじゃまるで、相手の壊れた雛形をただで直してあげたようなもんじゃない。最近こんなのばかり。だからNDAのレビューなんて嫌なんだよね。


なるほどCEOがレビューを全力で拒絶したのはこのためであったかと、今更ながら納得が行った。


CEOが言うには、彼が理想とするお互いが全力でぶつかり合う契約交渉など、実は、今は昔の感があるのだそうだ。もう20年程前に、所謂コンプライアンス(法令遵守)が叫ばれ重要視されるようになり、これがためにかえって法務の業務のというものが硬直化してしまったらしい。つまり、間違いを犯したら大変だということになり、誰一人として何も決められない、判断しない、各々が内に閉じ籠り、当然の帰結として人材も育たない世の中と相成った。だからこそ、どこの会社も自社の契約書の雛形を使いたがる。それを1字でも修正するとなると、それは大変な手続きと時間が必要になる。そこに来て、最近のリモートワークである。担当者は横のつながりも縦のつながりも絶たれ、メールに返信することすらできなくなってしまっている例も多いのである。


かてて加えて、個人情報保護法や改正暴対法の如き流行りの法律が次々とできたために、それらの定型条文をダウンロードしてきて、意味すら理解しないまま契約書雛形に織り込むということをやる。結果として、契約書雛形の崩壊が加速する。雛形全体を通して読むと、いよいよ訳が分からない。昔からアメリカの大会社にはこの傾向が認められた。自社のドラフトを直すことなど一切認めないというスタンスが多いのである。そう言えば我が社でもその昔、某航空機メーカーとインターネット接続サービスを契約するのに、航空機のリース契約を結ばざるを得なかったそうである。最近は、日本の会社でもこれと同じようなことがまま起きるのだそうである。


硬直化した法務。考えることも判断することもできず、自社の契約書に手を入れることもままならない。今回の真っ赤に染まったNDAドラフトに、この硬直化した法務界事情が凝縮せられていたのである。しかし、私はこの硬直化した法務の世界をば毅然と進もう。コンプライアンスだかメグライアンだか知らぬが、私はこれにぞ臆することなく、世界の支配者を目指そうではないか。私は修正したNDA条項の一つひとつを、やはり嫌がるCEOを捕まえて講釈してもらったのであった。


順調に法務実務デビューを果たした私は、CEOの指導の下、更なる実務の壁にぶつかっていきます。次回をお楽しみに。



イラスト作者: INAP Japan 技術部長 吉川進滋



一品堂のお酒を手にセールスマネージャー徳永と著者近影

 

プロフィール

ユニタスグローバル株式会社
事業戦略部長 間庭 一宏

獨協大学外国語学部卒業後、ITインフラエンジニアとして多くの現場を渡り歩く。
2012年7月インターナップ・ジャパン株式会社入社。以後、ネットワークエンジニアとして顧客のインターネット開通を手掛ける。
2021年より同法務担当となる。
インターナップ・ジャパン設立20周年ミュージック・ビデオ、『地獄の淵でRock Us Baby!』ではドラムを演奏。

2022年11月30日、ユニタスグローバル株式会社に社名を変更。


Webサイト:ユニタスグローバル株式会社

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