「ミャンマーと日本をつなぐ」エンジニアが選んだ挑戦の道
合同会社ジーフロッグ 代表社員 木村賢嗣氏

変化の激しい時代に、新たな価値を創り出し、未来を切り拓こうと挑む人たちがいます。
既存の枠を越え、変革を起こす意志と行動力を持つ“イノベーター”たち。
「イノベーターの視点」は、イノベーションズアイ代表・加藤俊之が、その発想の原点や挑戦の背景、そして変革を支える戦略や思想に迫る対談シリーズです。
工業高校を卒業後、富士通でエンジニアとしてキャリアをスタート。セイコーエプソンをはじめ複数の企業で経験を積み、現在はミャンマーと日本をつなぐ事業に取り組んでいる。転機となったのは、ミャンマー人との出会いだった。日本で働きたいという強い思いを知り、後の起業へとつながっていく。なぜ安定した会社員生活から独立を選んだのか。なぜミャンマーを事業の軸に据えたのか。これまでの歩みと今後の展望について話を聞いた。
自然の中で育まれた好奇心
――どんな子どもでしたか。
山口県下関市で生まれ育ちました。今のようにゲームを楽しむ時代ではありませんでしたので、とにかく外で遊んでいましたね。
山や川が身近にありましたから、友達と探検ごっこをしたり、生き物を捕まえたりしていました。当時はテレビで「川口浩探検隊」が人気だったので、みんなで探検家気分になっていました(笑)。
好奇心だけは強かったと思います。面白そうなものがあれば自分で見に行く、やってみる。そんな子どもでした。
――学生時代は。
中学生までは、正直なところ勉強より遊びの方が好きでした。
大きく変わったのは高校に入ってからです。1983年4月に下関工業高校の電子科に進学しました。当時は電子科自体が珍しく、先生に勧められたこともあって決めましたが、そこで初めて電子工学の世界に触れました。回路がどう動くのか、電気がどう流れるのか。それまで知らなかった世界を知ることが本当に面白かったです。
興味を持つと夢中になる性格なので、自然と勉強するようになりました。気が付けば成績も上がっていましたね。「勉強は面白いものなんだ」と初めて気づいたのも、この頃だったと思います。
――部活動は。
水泳部に所属していました。泳ぐことはもともと好きでしたし、県大会にも出場しました。ただ、競技の成績以上に仲間との思い出の方が印象に残っていますね。
当時は海へ行って潜ったり、魚を採ったりして遊んでいました。勉強も部活も、仲間との時間も充実していて、本当に楽しい高校時代でした。
エンジニアとしてのキャリアを磨く
――高校卒業後の進路は。

自分で積極的に探したというより、先生から勧められたことがきっかけで、86年に富士通に入社しました。
当時、故郷の人の多くは富士通と聞いてもどんな会社か分からず、社名に「通」が付いているので運送会社か何かだと思っていたくらいです(笑)。その後、本を読んで日本のコンピューター開発を牽引している会社だと知り、興味を持つようになりました。
最初の配属先は神奈川県川崎市でした。山口から初めて大都市圏へ出ることになり、不安がなかったわけではありませんが、それ以上に新しい世界を見ることができるという期待の方が大きかったですね。
――どのような仕事をしましたか。
エンジニアとして製品開発に携わっていました。当時はコンピューターやソフトウェアの世界が急速に発展していた時代でしたので、日々新しい技術に触れながら仕事をしていました。
その中で、技術そのものはもちろんですが、物事を論理的に考える力を習得することができました。問題が起きた時に表面的な現象だけを見るのではなく、「なぜそうなったのか」を考える習慣が身につきました。
今振り返っても、技術者としての基礎を学んだ非常に貴重な時期でしたし、とても充実した日々を送ることができました。
――にもかかわらず、転職したのはなぜですか。
当時担当していたプラズマディスプレイ事業の方向性に、次第に違和感を持つようになったからです。「本当に市場ニーズに合っているのだろうか」「このまま進めて大丈夫なのだろうか」。そんな疑問を感じるようになったんです。実際に自分なりの意見を伝えましたが、事業の方向性が変わることはありませんでした。それなら、自分が納得できる環境で新しい挑戦をしたいと思うようになりました。
もう一つ大きかったのが、「もっとソフトウェア寄りの仕事がしたい」という思いでした。
富士通ではハードウェアとソフトウェアの両方に関わっていましたが、次第に自分が本当にやりたいのはソフトウェアの領域だと感じるようになっていました。
そこで、15年間勤めた富士通を離れ、セイコーエプソンへ転職しました。
――セイコーエプソンではどのような経験をしましたか。
ソフトウェアの組み込みエンジニアとして、さらに経験を積むことができました。製品づくりに対する姿勢や品質へのこだわりなど、本当に多くのことを学びました。
この頃から「いつかは自分で何かをやってみたい」という思いが少しずつ強くなっていきました。起業を具体的に考えていたわけではありませんが、自分で事業をつくることへの関心は確実に芽生え始めていました。
営業への転身、起業の準備
――起業の準備をしていましたか。
将来的に起業するということを考えた時、「経営を学びたい」という思いがありました。
大手企業では、それぞれの役割が細かく分かれています。もちろん多くのことを学べますが、会社全体がどう動いているのかを知る機会は限られています。
そこで、もっと経営に近いところで仕事がしたいと思い、10年間勤めたセイコーエプソンを退職して、従業員が数名の小さな開発会社に転職しました。
――実際に働いてみていかがでしたか。
小さな会社なら経営のことが学べると思っていたのですが、実際にはハードウェアとソフトウェアの開発に携わることが中心でした。もちろん技術者としては良い経験になりましたが、自分が求めていたものとは少し違っていました。
結局、開発業務の日々が続き、1年ほどで退職することにしました。
――その後、営業職へ転身されていますね。
はい。その頃には、お客様が本当に求めているものは技術そのものではなく、課題の解決だということを強く感じるようになっていました。エンジニアとして開発を続けているだけでは、お客様が何に困り、何を求めているのかを本当の意味で理解することは難しいのではないかと思ったんです。
そこで思い切って、長年続けてきたエンジニア職を辞める決断をしました。
そして営業職として建設会社へ転職しました。
――大きな決断だったのではないですか。
そうですね。長年エンジニアとして仕事に携わってきましたので、不安がなかったわけではありません。ただ、起業するのであれば、お客様と向き合う力や営業力も必要です。そう考えると、自分に足りないものを学ぶための挑戦だったと思います。
それに、中途半端に辞めるつもりはありませんでした。「石の上にも三年」という言葉がありますので、まずは3年間しっかりやろうと決めていました。
――その後、直ぐに起業しましたか。
いいえ。3年が経ち営業職で入社した会社を辞めようと思っていた時に、セイコーエプソン時代の知人に声をかけられました。人材派遣会社で新規事業の部署が立ち上がるので、ここで働かないかと。役割としては、自らソフトウェア開発の企画を考え、それを事業化していく部長クラスの立場でした。
自分で事業を立ち上げる感覚に近い仕事だと思いましたし、新規事業をゼロからつくる経験ができることにも魅力を感じました。
起業する前に、もう一度大きな挑戦ができる環境だと思い、その会社で働くことを決めました。
――人材派遣会社ではどんな事業の立ち上げに関わったのですか。
会社からは「ゼロから自分で仕事をつくってほしい」と言われていました。そこで以前の人脈をたどり、あるメーカーの研究開発部門とつながることができました。そして、そのメーカーと共同で、自動ドア周辺のカメラを活用した危険予知や挟み込み検知の画像認識ソフトウェア開発を進めることになりました。
新規事業としてゼロから企画を立ち上げ、事業化を目指す仕事でしたので、とてもやりがいを感じていました。ただ、その事業を進めていく中で会社の方針が変わり、「開発はやめて派遣事業を中心にしていく」ということになってしまいました。
せっかく立ち上げた事業でしたので残念な思いもありましたが、その時に改めて自分の将来について考えるようになりました。
そして、「やはり自分でやってみよう」と決意し、起業することにしました。
ミャンマーとの出会い、可能性に挑戦
――どんな事業で起業を考えたのですか。
何を軸に起業するかを考えた時、その人材派遣会社で働いていたミャンマー人女性との出会いがとても大きかったです。その女性は私の部下として一緒に仕事をしていました。
その会社はベトナムとミャンマーに拠点を持っていて、社内にもベトナム人やミャンマー人のスタッフがいました。それまでミャンマーという国を特別意識したことはありませんでしたが、実際に接する中で、その国民性や価値観に触れる機会が増えていきました。
――ミャンマーのどのような点に魅力を感じたのでしょうか。
日本は少子高齢化が進み、人材不足への対応が大きな課題になっています。一方で海外には、日本で働きたいという強い意欲を持った若者がたくさんいます。
その中で、「どの国の人たちが日本で最も活躍しやすいだろうか」と考えた時に、自分の中では「ミャンマーしかない」という思いが強くなっていきました。
実際に一緒に働いていたミャンマー人たちは真面目で向上心も旺盛です。日本の文化や働き方に対する理解も深いと感じていました。だからこそ、ミャンマーと日本をつなぐことに大きな可能性があると思いました。そして2018年3月、ジーフロッグを設立しました。
――起業への不安はありませんでしたか。

もちろんありました。会社員と経営者では責任の重さが全く違いますからね。
それに、私一人ではなく、当時部下だったミャンマー人と一緒に会社を立ち上げることになりましたので、自分だけの問題ではなくなりました。
ただ、それ以上に「やらなければ後悔する」という気持ちの方が強かったんです。これまで培ってきた経験や人とのつながりを生かしながら、二人で新しい価値を生み出したいと思いました。
不安はありましたが、それよりも挑戦してみたいという思いの方が勝っていましたね。
――事業は順調に進みましたか。
創業当初は、まずミャンマーという国を日本の企業や経営者の方々に知ってもらおうと考え、現地視察イベントを開催しました。
また、ミャンマー・ヤンゴンに日本語学校を開設し、日本で働きたい人材の育成に取り組みました。
どちらも順調にスタートし、少しずつ事業の基盤ができ始めていました。
――その後、大きな環境変化がありましたね。
そうなんです。2020年代に入ってまず新型コロナウイルスの感染拡大により海外との往来が止まり、視察イベントは実施できなくなりました。さらに追い打ちをかけるように、2021年2月にミャンマーで軍事クーデターが発生しました。
事業の柱だった二つの取り組みが、どちらも継続することが難しくなってしまいました。正直、非常に厳しい時期でしたね。
――どのように乗り越えたのですか。
ミャンマーと日本をつなぐというやりたいことを諦めたくなかったので、自分にできるソフトウェア開発の案件を受託しながらなんとか事業を継続していました。
決して順風満帆ではありませんでしたが、その間も将来を見据えた基盤づくりは続けていました。そして少しずつ事業を立て直し、現在ではミャンマー・ヤンゴンとタイ・バンコクでミャンマー人を対象とする日本語学校を運営しています。
また、登録支援機関として、特定技能の在留資格で働く外国人材の生活面のサポートやSNSによって日常の相談、日本語学習機会の提供などを行っています。
創業当初と比べると事業領域も広がり、現在はミャンマーとタイ、日本を合わせて約40人のスタッフが働いています。
――最後に、今後の挑戦についてお聞かせください。
日本は人口減少が進み、人材不足はさらに深刻になっていきます。その中で、外国人材と日本企業をつなぎ、安心して働き、暮らせる環境をつくること、定着支援がますます重要になっていくことは間違いありません。
現在はミャンマーを中心に、タイでの展開も進めていますが、将来的にはインドネシアも視野に入れています。その時はミャンマー人に限らず優秀な人材が日本で働けるようにしたいと考えています。より多くの国と日本を結び、多様な人材が活躍できる仕組みをつくっていきたいですね。
また、私自身はエンジニアとして長くキャリアを積んできましたので、その経験も活かしていきたいと考えています。人材支援だけでなく、IT関連のサービスも事業に取り入れながら、新しい価値を生み出していきたいですね。
ミャンマーと日本をつなぐことから始まった挑戦ですが、これからも人と企業、そして国と国をつなぐ存在として、新しい可能性を広げていきたいと思っています。

合同会社ジーフロッグ 代表社員 木村賢嗣
富士通株式会社へ新卒入社後、日本初の銀行ATM搭載タッチパネル設計に従事(スマホのタッチパネルなど現代に欠かせない礎を築く)、世界初となるプラズマディスプレイ設計に従事。その後、セイコーエプソンにおいて、USB2.0規格に準拠したスキャナーの組み込みソフトウェア開発に従事。リーマンショックの影響により建築業界へ転職、飛び込み営業として営業スキルを習得。
日本の人口減少という課題にミャンマー人材と共に解決に取り組み、ミャンマー発展のために寄与することを経営理念として、2018年3月に合同会社ジーフロッグを設立、CEOに就任。
30年以上のエンジニア経験と過去の実績を活かしたイノベーターとして、ミャンマーと日本の新しい未来を創造するため活動している。
イノベーションズアイ株式会社 代表取締役 加藤俊之
1968年生まれ・茨城県出身。大学卒業後、証券会社、IT企業、物流企業、政府系プロジェクトを経て、2006年にイノベーションズアイ株式会社(現在)を設立し代表取締役に就任。グローバルベンチャー、ローカルベンチャー、大学発ベンチャー、日本のものづくりを卓越した技能で支える中小企業など、多様なイノベーターと向き合ってきた。「未来を創る企業を増やす」を使命に、「発掘×発信×発展」を事業コンセプトとしたビジネスプラットフォームの創造に取り組んでいる。