「ミッション実現への覚悟」やんちゃな次男坊から経営者へ
株式会社店舗ドック 代表取締役 髙倉博

変化の激しい時代に、新たな価値を創り出し、未来を切り拓こうと挑む人たちがいます。
既存の枠を越え、変革を起こす意志と行動力を持つ“イノベーター”たち。
「イノベーターの視点」は、イノベーションズアイ代表・加藤俊之が、その発想の原点や挑戦の背景、そして変革を支える戦略や思想に迫る対談シリーズです。
3人兄弟の次男として、やんちゃな性格と強い反骨心を持ちながら育った。大学受験の挫折、父が経営する会社での葛藤を経て28歳で起業。アパレル事業から看板用LED事業へと転換したが、1億円を超える借金を背負うことになる。どん底の中で出会ったのが「ビジネスモデル」という考え方。マネジメントに取り入れ徹底的に見直すことで、設備の健康寿命を延ばすドック事業にたどり着いた。2025年には27年間続いた社名「レガーロ」を「店舗ドック」に変更。「果てしなく続く緊急メンテナンスを、ゼロにする」というミッションを掲げ、新たなステージへと挑む。波乱に満ちた経営人生と、その原動力に迫った。
やんちゃな性格と反骨心をバネに
——幼少期はどのように過ごされましたか。
父がアパレル会社を経営していたこともあり、とても恵まれた、賑やかな家庭でした。僕は3人兄弟の真ん中ですが、性格はまったく違います。兄は絵に描いたような真面目で、僕はまっすぐいかない、いわゆるやんちゃ。少し年が離れている弟は文武両道で無難な道を進むタイプですね。
父は「俺が、俺が」という強い性格でしたので、衝突することが多かったです。その反発心が、今の自分の大部分をつくっていると思います。今は、自分も父に似てきていますけどね(笑)。
——子供のころから社長になりたいと思っていたのですか。

昔から「社長になりたい」と強く意識していたわけではなく、自分でもすっかり忘れていたくらいです。
中学生のとき、つくば万博(1985年、茨城県)へ行って、そこで「2000年の自分に年賀状を書く」という企画がありました。15歳だった当時の自分が書いた年賀状が、30歳になったときに届いたのですが、そこには「社長になっている」「結婚している」「家を持っている」「子どもが2人いる」と書いてありました。
それを見たとき、「ああ、こんな頃から思っていたのだ」と自分でも驚きました。父が経営者だったので、その背中に対する憧れもあったと思いますし、一方で「負けたくない」「越えたい」という反骨心もあったと思います。
学生時代は、特別に意識高く過ごしていたわけではなく、大学受験に失敗して、簿記の専門学校に進学しました。これが人生で最初の大きな挫折でしたが、同時に「大卒者には絶対に負けない」という強い原動力になりました。
学歴に対するコンプレックスが、結果的には自分を前に進めるエネルギーになっていたと思います。
——専門学校卒業後の進路は。
就職活動の段階で、父から「うちの会社に来いよ」と声をかけられました。正直、戸惑いはありましたが、「きちんと面接してほしい」とお願いして、当時の幹部の方と会ったうえで入社を決めました。
実際に働き始めて分かったことですが、「息子」と呼ばれることが本当に嫌でした。社内でも、取引先に行っても、「ああ、息子ね」と言われる。「博」とも、「髙倉」とも呼ばれない。その扱いに、強い違和感がありました。
僕はやんちゃなタイプだったので、いじられることに慣れていなかったというのもありますが、それ以上に「自分は個人として見られていない」と感じていました。それでも必死に働きましたが、1〜2年経った頃から違和感がだんだんと大きくなっていきました。
このまま父の会社にいても、僕は父の人生の“脇役”でしかない。自分が“主役”の人生ではない、と思いました。結局、5年間勤めましたが、「このままではダメだ。もっと力をつけなければいけない」と退職を決意しました。
ちょうどその頃、父の会社に出入りしていた、10歳ほど年上の業者の担当者から、「会社を立ち上げるので、人がほしい」という話を聞きました。思い切って「僕じゃダメですか」と返したところ、「え、辞めるの?」と驚かれましたが、創業メンバーとして迎えてもらうことになりました。
——創業メンバーとして加わった会社を、なぜ辞めることになったのですか。
本当に安い給料で、「あれ、これじゃ食えないな」という状態でした(笑)。それでも創業期だったので必死に頑張りましたし、売り上げも徐々に増えていきました。
すると、「これだけ数字を上げているのだから、もっと評価されてもいいのではないか」という気持ちがわいてきて、社長に直訴しました。「これだけ売り上げをつくりました。次はこの数字を目指します。だから給料を上げてほしい」と。
ところが、そう話した途端、社長が引いてしまって。それ以降、目に見えない壁ができてしまいました。毎日顔を合わせているにもかかわらず、手紙で「父親の会社を辞めて入りたいと言うから雇った」というようなことを言われ、「もう無理だな」と感じました。そこで初めて、「自分で会社をつくろう」と覚悟を決めました。
新たな挑戦と借金、そしてビジネスモデルの確立へ

——ついに社長ですね。
28歳でアパレル会社を立ち上げましたが、正直、最初が一番きつかったですね。何の準備もできていなかったですし、半年前に結婚したばかりでした。体重も10キロくらい落ちました。
周りからは、「結婚して10キロも痩せたのか。大丈夫か?」なんて言われました(笑)。ただ、その後は仕事も順調に回り始め、売り上げは5000万円ほど、利益も2000万〜2500万円ほど出せるようになりました。
生活も安定し、1日4〜5時間働いて、後はのんびり過ごすような日々になっていました。それから6〜7年経った頃、経営者仲間からこう言われました。「お前は力があるのに、何も挑戦していない」。本当にその通りだと思いました。
——そこから新たな挑戦が始まったのですね。
ちょうどその頃、「看板用のLEDを扱ってみないか」と声をかけてくれた経営者がいました。LEDは省エネで長寿命という画期的な技術でしたし、業界としてもまだ開拓できておらず、大手企業も参入していませんでした。このため、これから伸びる市場だと感じました。
いろいろな経営者仲間に相談しましたが、ほとんどが反対でした。ただ、僕の性格上、「これだけ反対されるなら、きっとうまくいく」と思ってしまい、挑戦を決めました。
——看板用LED事業は予想通り、順調に伸びましたか。
営業に力を注ぎ、とにかく動き回りました。大手流通企業にも飛び込みで入って、結果的に1億円の受注をいただくことができました。「やった!」と喜んで、そのときは朝まで飲み明かしましたね。
ただ、当時は2人だけの会社でした。人の問題、仕入れの問題、現場対応……次々と課題が出てきて、それを無理やりカバーし続けた結果、気づけば借金が1億円を超えていました。
——経営危機をどのように乗り越えたのですか。
借金を抱えてからの3年間は「もう終わったな」と思いながら、それでも必死で働いていました。ただ、自己破産という選択肢は一度も考えませんでした。返済するには、売り上げはいくら必要なのか、利益はどれだけ必要なのか。そう考えていく中で、「会社を大きくしなければ乗り越えられない」と腹をくくりました。本当は、一人で気楽にやるほうが好きですけどね(笑)。
そんなとき、業績が劇的に改善している経営者仲間がいて、「何で変わったのですか?」と聞いたところ、コンサルタントの指導を受けていると教えてもらいました。
すぐにその方に会いに行き、会社の数字を見てもらうと「これは消耗系の会社だ。あなたはアクセルとブレーキを全力で踏んでいる」と言われました。
力があるからこそ、アクセルもブレーキも全開ということなのですが、怖いからブレーキを踏み、でも頑張らなければいけないからアクセルも踏む。その結果、どんどん消耗していく、と。
そこで初めて、(事業戦略や収益構造の設計図を描く)「ビジネスモデル」という考え方を知りました。
——そこからビジネスモデルの構築に取り組まれたわけですか。
まず取り組んだのは、「誰に売るのか」を明確にすることでした。「使う可能性のあるすべての人」ではなく、「この人に売る」と決める。
そこからビジネスモデルを徹底的に見直し、試行錯誤を重ねる中で生まれたのが「看板ドック」です。「看板で悲しむ人をゼロにする」というミッションを掲げ、店舗などの屋外看板の安全性を人間ドックのように専門技術で診断し数値化。そのうえでカルテとして報告・管理するサービスです。
ミッション実現への覚悟
——2025年に社名を「店舗ドック」に変更されましたね。

看板だけでなく、店舗設備全体を扱う会社として生まれ変わるための決断でした。新しいミッションは、「果てしなく続く緊急メンテナンスを、ゼロにする」。予兆・予報保全の仕組みを確立し、店舗オーナーが安心して事業に専念できる環境をつくっていきたいと考えています。
そのために大切にしているのが、「全従業員の豊かさを追求するとともに、顧客企業の店舗開発部の快適を創造する」利他共栄、利他共鳴、利他共振という理念です。
不安や不便をクリエイティブに解決し、利他の精神で行動することで、周囲と共鳴し、共振していく。それが僕の考える経営の根幹です。
——ゴルフ、ボクシング、合唱と多彩な活動をされていますね。
すべてに意味づけがあります。ボクシングは心身のコンディションを整えるため。合唱は「人間は波長の生き物だ」という考えから、経営者が集まる合唱団に参加しています。ゴルフは、人に覚えてもらうためですね。
中途半端ではなく、「ちゃんとやっている」という姿勢を見せたい。何か一芸に秀でると、自然と興味を持ってもらえるものです。すべての行動が、ミッションの実現につながっています。
——最後に、価値観に大きな影響を与えた出来事がありましたら教えてください。
39歳のときに、母を亡くしたことです。母はとてもおとなしい人で、父が強烈な性格だったこともあり、正直、幼少期は母のことをあまり意識していませんでした。
でも、母が亡くなって初めて気づきました。僕に注がれていた愛情や、さりげない優しさ。それまで見えていなかったものが一気に見えるようになりました。
借金を抱え、「飲まなければ、やっていられない」と毎晩のように朝まで飲んでいた時期に、母が自宅療養になり、看病のために実家へ通うようになりました。すると、夜8時や9時には寝る生活になりました。
当たり前ですが、体が楽だと気づいたのです。精神的に追い込まれていた時期でしたが、「五体満足じゃないか」「体は元気じゃないか」と、当たり前のことに気づけるようになりました。
39歳で母を見送り、「よし、もう一度やろう」と心に決めました。母の死は、僕にとって多くのことを教えてくれた、大きな転機でした。

株式会社店舗ドック 代表取締役 髙倉博
1970年、東京都世田谷区生まれ。専門学校卒業後、父が経営するアパレル会社に入社したが5年で退職。1998年、28歳で株式会社レガーロを設立。アパレル事業から看板用LED事業へ転換し、35歳で1億円超の借金を抱える。39歳で最愛の母を亡くし、人生を見つめ直す。その後、コンサルタントとの出会いをきっかけにビジネスモデルを確立。2017年に「看板ドック」サービスを開始。25年10月、社名を「株式会社店舗ドック」へ変更し、「果てしなく続く緊急メンテナンスを、ゼロにする」というミッションを掲げる。
イノベーションズアイ株式会社 代表取締役 加藤俊之
1968年生まれ・茨城県出身。大学卒業後、証券会社、IT企業、物流企業、政府系プロジェクトを経て、2006年にイノベーションズアイ株式会社(現在)を設立し代表取締役に就任。グローバルベンチャー、ローカルベンチャー、大学発ベンチャー、日本のものづくりを卓越した技能で支える中小企業など、多様なイノベーターと向き合ってきた。「未来を創る企業を増やす」を使命に、「発掘×発信×発展」を事業コンセプトとしたビジネスプラットフォームの創造に取り組んでいる。