人見知りの少年が、世界をつなぐ経営者へ
ピーエムグローバル株式会社 代表取締役 木暮知之

変化の激しい時代に、新たな価値を創り出し、未来を切り拓こうと挑む人たちがいます。
既存の枠を越え、変革を起こす意志と行動力を持つ“イノベーター”たち。
「イノベーターの視点」は、イノベーションズアイ代表・加藤俊之が、その発想の原点や挑戦の背景、そして変革を支える戦略や思想に迫る対談シリーズです。
人見知りで内向的だった少年は、転校をきっかけに自らを変え、米テキサスへの留学で価値観を大きく揺さぶられた。その経験が現在の原点となっている。 銀行での海外勤務、外資系企業でのキャリアを経て起業し、「違いを前提にする」ことを軸とした独自のプロジェクトマネジメントを確立。多様性を認めるだけでなく、機能させることで価値を生み出してきた。 その思想は、ラグビーでの指導やAI活用にも通底している。人見知りだった少年が、いかにして世界をつなぐ経営者へと変貌を遂げたのか。
人見知りだった少年が、世界と向き合う
――どんな子どもでしたか。
大人しくて人見知りで、好き嫌いも多かったですね。
父は面倒見のいい人で、地域の子ども会や野球チームのコーチをしていたので、私もよくそうした場に連れて行かれていましたが、正直かなり憂鬱でした。
こういう集まりではよくゲームで遊んだりしますが、負けると罰ゲームで、お尻で文字書きとかをやらされました。そういう恥ずかしいことが、本当に苦手でした。
食べ物も、肉も魚も野菜も嫌いで、極端な話、食べられるのは卵焼きくらいでした。
――人見知りの性格はどこで変わりましたか。
中学2年の時に横須賀(神奈川県)から所沢(埼玉県)に転校したのが転機でした。誰も知らないところに引っ越すなら、この機会に自分を変えようと思ったんです。
それから友達に誘われて英会話教室に通い始めました。先生は日本人でしたが、見た目は外国人のようで、髭にデニムの姿がすごく格好よく印象的でした。
教科書はすべて英語で書かれており、自分が話さないと授業が進みません。その環境の中で、自分から言葉を発せられるようになりました。
好き嫌いが多かった食べ物も、周りの人が普通にいろいろなものを食べているのを見て、「じゃあ自分も食べてみよう」と思うようになり、少しずつ変わっていきました。
――中学生の頃から起業を志していたと聞きましたが。
司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』に強く影響を受けました。「世に生を得るは事を成すにあり」という言葉に触れて、「自分も何かを成さなければいけない」と思いました。
父が銀行員だったこともあり、サラリーマンとは違う道を歩みたいという気持ちもありました。ただ、その時点では何をやるかは全く分かっていませんでした。それでも「起業する」という方向性だけは意識していました。
――高校生の時、留学されたそうですね。

高校の頃には、もっとスケールの大きい人間になりたいと強く思うようになっていました。そんな時、英会話教室で「テキサスへの交換留学」という募集を見つけて、「テキサスに行けば何か変われるんじゃないか」と考え、応募しました。
高校2年から1年間の予定でしたが、1年経ってやっと英語が分かるようになってきた段階でしたので、「ここで帰るのはもったいない」と思い、結果的に2年間滞在しました。
―― 家族や友達と離れることへの抵抗はなかったのですか。
全くなかったですね。その頃にはもう吹っ切れていて、「自分が変わるかもしれない」という期待の方が大きかったですね。今振り返ると、英語もできないのによく行ったなと思いますが、当時は「何か違う自分になりたい」という気持ちが強くありました。
―― 実際に留学してどうでしたか。
全く違う世界でした。アメリカでは同年代でも自分の意見をしっかり持っていて、主体的に発言する。それが当たり前でした。
印象的だったのは、授業で「歴史についてどう思うか」と聞かれたときです。私は何も答えられませんでした。そもそも知識がないし、自分の意見もない。その事実に気づいたとき、「このままではいけない」と強く思いました。
その経験が、その後の進路選択につながりました。高校卒業後はただ大学に進学するのではなく、引き続きグローバルな環境に身を置き、多様な価値観の中で自分の考えを磨きたいと思ったんです。
そこで選んだのが上智大学の比較文化学部(現・国際教養学部)でした。授業はすべて英語で、ヨーロッパやアジアなど、さまざまな国の学生が集まっていました。日常的に価値観や考え方の違いに触れる環境は、自分にとって非常に大きな刺激となりました。
金融からITコンサルへ、キャリアの中で見つけた仕事の軸
―― 大学卒業時に就職先として銀行を選ばれたのはなぜですか。
グローバルな仕事をしたいという思いはありましたが、当時はまだ何をやるべきか明確ではありませんでした。そんな中で、親友が先に東京銀行(現・三菱UFJ銀行)に入っていて、「風通しが良い会社だ」と勧められたのがきっかけでした。
実際に入ると「始発で(行って)終電(で帰る)」というような非常に厳しい環境でしたが(笑)、その中で鍛えられたことは大きかったと思います。
―― ロンドン支店に異動されていますね。
シンジケートローン(協調融資)という国際金融の業務に携わっていました。複数の金融機関や企業と連携しながら資金調達を行う仕事で、調整力や交渉力が求められます。
さまざまな関係者を巻き込みながらプロジェクトを進める経験は、今の仕事にもそのままつながっていると感じています。
―― その後、外資系ITコンサルに転職されました。理由は何ですか。
帰国した頃は、ちょうどアップルやアマゾンといったIT企業が急成長している時期で、「これからはITの時代だ」という流れを感じました。それもあって、銀行での経験を活かしながら、グローバルにも携われる仕事がしたいと思い、業界トップクラスの企業をクライアントとする外資系I Tコンサルティング会社に転職しました。
――外資系の会社はどうでしたか。
一番びっくりしたのはカルチャーです。社内に卓球台とかバスケットゴールがあって遊びの要素も多いのですが、仕事は非常にハード。そのギャップが面白かったですね。
そして何より、多様な人材が一つのチームとして機能していることに驚きました。ストラテジスト、プログラマー、設計者、デザイナー、プロジェクトマネージャーなど専門性も国籍も異なる人たちが、一つの目的に向かって価値を生み出していく。そのダイナミズムは非常に刺激的でした。
この経験を通じて、「チームで成果を出す」という考え方が自分の中で明確になったと思います。
「違いをつなぐ」を価値へ
――そんな会社を辞めて起業したきっかけは。
私が担当していたお客様の一人が外資系の自動車会社に転職されて、その会社のプロジェクトの立て直しを依頼されました。それを社長に相談したところ、「それなら自分で独立してやればいい」と言われて。それなら「じゃあやってみるか」という感覚でしたね。中学生の頃から起業を志していましたが、こんな形で実現するとは思っていませんでした(笑)。
――起業してみてどうでしたか。
会社を設立した当初はとにかく目の前の依頼に応えることに必死でした。「お客様が喜んでくれるから頑張る」という感覚で仕事をしていました。
ただ、そんな中で「自分は何のために働いているのか」を考えるようになりました。その結果、ミッションやバリューを明確にすることの重要性に気づき、経営の軸が徐々に定まっていきました。
――企業の海外プロジェクトの推進支援という事業で気を付けていることは。
一番強く意識しているのは、「違いを前提にする」ということです。
日本はどうしても同調意識が強く、少しでもやり方が違うと「それはおかしい」となりがちです。海外企業と仕事をする際にも「向こうのやり方は間違っている」と捉えてしまうケースが少なくありません。
ただ、企業の海外プロジェクトの推進支援では、そうした発想ではうまくいきません。重要なのは「リスペクト」だと思っています。単なる尊敬ではなく、「違いがあることを理解した上で、相手の立場を受け止める」という意味です。「あなたの考えは分かりました。そのうえでどう進めるかを一緒に考えましょう」という姿勢ですね。
実際の現場では、価値観や意思決定のプロセスの違いによって摩擦が生まれます。そのギャップをどう埋めるかがプロジェクトの成否を分けます。その橋渡しが私たちの役割だと考えています。
――研修・教育事業も手掛けていますが。
ある製薬会社さんから頼まれたんです。「海外からリーダーたちが30人くらい来るんだけど、その研修を何とかしたい」という話が直接来て。もともと研修事業を手掛けていたわけではありませんが、「何とかできるのではないか」と考えて企画を出したところ、そのまま採用されました。ただ、引き受けてからは相当苦労しました(笑)。それでも、人の困りごとを何とかしたいという思いが、結果的に新しい事業につながったと感じています。
――議事録AIツールも開発されました。
プロジェクトマネジメントはどうしても人に依存する部分が大きいので、それ以外の形でも価値を提供できないかと考えていました。
そこでAIを学ぶためにカーネギーメロン大学のセミナーに参加したのですが、アメリカらしく参加者の誰もが間違っていても積極的に発言していきます。それによって議論がどんどん深まっていくんです。改めて刺激を受けました。
その中で、医師と患者の会話を自動で記録・整理するサービスの事例を知り、「プロジェクトの議事録に応用できるのではないか」と考えました。そこから開発を進め、現在のサービスにつながっています。
多様性を生かす力が、世界をつなぐ
――休日の過ごし方は。
息子が小学校に入るタイミングで、近くのラグビースクールに通い始めました。それがきっかけで、私も流れでコーチをすることになりました。気づけば息子はとっくに卒業していますが、私はそのまま残り、もう20年ほど続けています。今でも小学生を教えています。

ラグビーというスポーツは、実は私たちの仕事と非常に共通点が多いと感じています。フォワードのように体を張って前に出る役割の人もいれば、バックスのようにスピードで勝負する人もいます。それぞれ全く異なる特性を持った選手たちを、一つのチームとして機能させる必要があります。
これは多様性をどう生かすかという点で、まさに企業の海外プロジェクトの推進支援と同じです。単に「違いを認める」だけではチームとして機能しません。それぞれの強みをどう生かし、どう組み合わせると成果につながるかを考えて設計し、マネジメントしていく必要があります。
ラグビーの現場では、お互いの違いを理解しながらリスペクトしあい、チームとして成果を出すことが求められます。その経験が結果的に、仕事にもそのまま生きていると感じています。
――今後は、どんなことに挑戦していきますか。
これからもずっと仕事を続けていきたいと思っています。その中で挑戦したいのは、グローバルに拠点を広げながら、世界中の企業や人をつなぐ仕組みをつくることです。
どの国にも似たような課題がある一方で、それぞれに強みや文化の違いがあります。日本にも優れた点は多くあり、そうした価値をもっと海外に発信していきたい。そして、各国の良い部分と掛け合わせることで、新しい価値を生み出していきたいと考えています。
実際に、バルセロナ(スペイン)で出会ったエンジニア企業の経営者は日本が大好きで、そうした関係性から自然とビジネスが生まれています。こうしたつながりを世界中に広げていけたら、とても面白いですよね。
国や文化を越えて人と人がつながり、それぞれの強みを生かしながら価値を生み出していく。そうした世界を実現していきたいと考えています。
ピーエムグローバル株式会社 代表取締役 木暮知之
上智大学卒。豪ボンド大学MBA。カーネギーメロン大学Executive AI。
東京銀行(現・三菱UFJ銀行)で協調融資による資金調達や投資顧問などの業務を経験。
ITコンサルタント会社の米セピエントの日本法人立ち上げメンバーとして多くのe-businessやデジタルブランディングに従事した後、サイエント社でも多くのグローバル企業のプロジェクトを推進した。
2005年ピーエムグローバルを設立。製造・サービス・IT・金融などの企業でITプロジェクトの管理・推進に関わった。外資系企業の技術幹部サポートや米系保険会社の日本文化アドバイザーを務め、企業研修にも精通。学校教育へも活動の場を広げている。
イノベーションズアイ株式会社 代表取締役 加藤俊之
1968年生まれ・茨城県出身。大学卒業後、証券会社、IT企業、物流企業、政府系プロジェクトを経て、2006年にイノベーションズアイ株式会社(現在)を設立し代表取締役に就任。グローバルベンチャー、ローカルベンチャー、大学発ベンチャー、日本のものづくりを卓越した技能で支える中小企業など、多様なイノベーターと向き合ってきた。「未来を創る企業を増やす」を使命に、「発掘×発信×発展」を事業コンセプトとしたビジネスプラットフォームの創造に取り組んでいる。