【対談】イノベーターの視点

「人が好き」だから事業が生まれる “大きなおせっかい”を形にする

堀江車輌電装株式会社 代表取締役 堀江 泰氏

「人が好き」だから事業が生まれる “大きなおせっかい”を形にする

変化の激しい時代に、新たな価値を創り出し、未来を切り拓こうと挑む人たちがいます。
既存の枠を越え、変革を起こす意志と行動力を持つ“イノベーター”たち。

「イノベーターの視点」は、イノベーションズアイ代表・加藤俊之が、その発想の原点や挑戦の背景、そして変革を支える戦略や思想に迫る対談シリーズです。

第21回は、鉄道車両の整備事業を軸に、障がい者支援やビルメンテナンスなどへ事業を広げてきた堀江車輌電装の堀江泰代表取締役。20歳で家業の同社に入り、鉄道車両整備の現場で経験を積んだ後、32歳でトップに就いた。人との出会いや目の前の困りごとをきっかけに、新たな事業を立ち上げてきた。「多分、人が好きなんでしょうね」と語る堀江氏に、これまでの歩みと事業に対する考えを聞いた。

外で遊び回った少年時代

――どのような少年でしたか。

埼玉県所沢市で生まれました。3歳上の姉と6歳下の妹がいて、真ん中の長男です。

目立ちたがりで、人前に出ることも好きだったと思います。足が速くて、幼稚園から中学校までずっと陸上のリレー選手でした。

住んでいたところはマンションが10棟ぐらいある大きな団地のような場所で、公園もいくつかありました。外に出れば誰かがいるので、缶蹴りやドロケイをして遊んでいました。とにかく外で遊んでいましたね。

――スポーツは何を。

中学校では3年間野球をやりました。ちょうど所沢が本拠のプロ野球・西武ライオンズの黄金期で、野球もよく見に行っていました。

中学生の頃になると、サッカーJリーグが始まって、三浦知良さんや北澤豪さんたちを見て、サッカーは格好いいと思いました。それで高校からは、野球で坊主頭にするのが嫌だったのでサッカー部に入り、3年間続けました。

――高校時代はどのように過ごしましたか。

進学校に入ったのですが、校則も厳しく、だんだん学校が嫌になっていきました。勉強が嫌いというより、型にはまった勉強が合わなかったんだと思います。

高校2年生の頃、学校を辞めたいと両親に言いました。ただ、サッカー部の仲間が好きだったので、部活のために学校に通ったようなところがあります。

高校3年生の夏に部活を引退すると、周りは受験勉強を始めました。私は逆にアルバイトに精を出し、引っ越しやカラオケなどの仕事をやりました。特に電話営業のアルバイトでは成績が良くて、「働くのは楽しいな」と感じるようになりました。結局、大学は一校も受験しませんでした。

20歳で家業へ 現場で知った自分より優秀な人たち

――その後、堀江車輌電装に入ったのですか。

いえ、高校卒業後は浪人して大学予備校に入りましたが、あまり行かずパチンコ店でアルバイトをしていました。18、19歳でそれなりに給料をもらえるし、働くことが楽しかったです。

ただ、社員でも高卒と大卒では昇進スピードが違うのを見て、「社会ってこうなんだ」と感じました。自分には学歴がないし、このままアルバイトを続けていても、給料は期待できないと思って、とりあえず働こうと考えました。当時、堀江車輌電装は父の兄が社長をしていましたので、本当に軽い気持ちで「会社で働く」と言って、20歳で入りました。

――入社して最初に担当した仕事は。

鉄道車両整備の現場に配属されました。当時は10人ほどの小さな会社でしたので、親族だからといって事務所で仕事ができるような会社ではありません。作業着を着て、ヘルメットをかぶって現場から始まりました。

現場に入ってみると先輩たちが本当に優秀で、「勉強だけではない優秀な人がいるんだ」と初めて思いましたし、エンジニアとして自分はこの人たちにはかなわないとも思いました。

正直、それまではブルーカラーの仕事を少し軽く見ていたところもありました。でも実際に自分が現場に入り、何もできない中で仕事を教えてもらって、その考えは変わりました。そこから社会の勉強を始めたような感覚です。

――現場に長く出ていたのですか。

20から27歳まで現場で仕事をしました。

27歳の時に2代目社長だった伯父が亡くなり、父が急きょ社長になりました。そのタイミングで、私も経営に関わる立場になりました。

27歳で経営に関わり 会社を軌道に乗せる

――27歳で経営に関わるようになったのですね。

経営に関わるようになり、かなり厳しい経営状況であることを知りました。

今までは現場で仕事をしていればよかったのですが、会社をどう立て直していくかを考えるようになり、がむしゃらに働きました。

それから数年間、取引先を広げたり、これまで外注していた仕事を自前でできるようにしたりしながら、少しずつ会社を軌道に乗せていきました。

そして32歳で社長を引き継ぐことになりました。社長であった父は、会長として残るわけでもなく、株式を持ち続けるわけでもなく、完全に引退しました。

――社長になることへの不安はありませんでしたか。

まったく不安はなく、「早くやりたい」という気持ちでした。27歳からの5年間で、現場だけでなく、マネジメントや新しい仕事をつくることにも関わってきました。その経験があったので、社長になった時には、自分で会社を動かしていきたいという気持ちの方が強かったですね。

――どのような会社にしたいと考えていましたか。

鉄道車両の仕事でも、電気だけでなく内装や溶接なども含めて一気通貫で仕事ができるようにしたいと考えていました。

発注する側から見ても、電気はこの会社、塗装は別の会社、内装はまた違う会社というより、まとめて任せられる方がいいですよね。取引先も増やしていかなければ、会社はスケールアップしないとも思っていました。

そして一番大きな目標は、家族経営からの脱却でした。もちろん優れた家族経営の会社もたくさんあると思いますが、私自身は家族だけでやっている会社に夢がないと感じていました。

――経営に関わるようになってからは、積極的に営業にも動いたのですか。

動きました。取引関係のない鉄道会社などにも営業に行きましたし、飛び込みに近い形で「こういうことをやっています」と話しに行ったこともあります。

客先を広げたい、家族経営から脱却したい。そのためには、人を先に雇うのか、仕事を先に取るのか。体制も変えなければいけない。そんなことばかり考えて、がむしゃらに動いていました。

そうした中で仕事も徐々に増え、会社も軌道に乗り始め、家族経営から組織として成長していくための基盤が整っていきました。

人との出会いから始まった障がい者支援

――障がい者支援に取り組んだきっかけは何だったのでしょうか。

2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まった頃に、パラスポーツの普及活動をしている方の講演を聞きました。

そこでパラスポーツに興味を持って、家に帰って「サッカー、障がい者」と検索したんです。すると「知的障がい者サッカー日本代表」の動画が出てきました。それを見て感動して、「この子たちを手伝いたい」と思いました。

それで日本知的障がい者サッカー連盟に「ボランティアをさせてください」とメールを送りました。その後、日本代表の練習を見に行ったり、ユニフォームを提供したり、グラウンドや協賛先を探したりする活動を始めました。

――なぜ事業に発展させたのですか。

1年ほど活動していると、いろいろな課題が見えてきました。ボランティアでできることと、仕事としてできることを分けた方がいいと思うようになり、社内に障がい者支援の事業部を立ち上げ、就職支援などを始めました。

――さらにビルメンテナンス事業にも進みましたね。

障がいのある方の就職支援をしていましたが、自社でももっと雇用したいと思うようになりました。

知的障がい者が通う特別支援学校には、清掃を学ぶコースなどがあります。ビルメンテナンスは清掃との親和性が高いと感じていました。

ちょうどその頃、ビルメンテナンス会社のM&A案件があり、「これならいいかもしれない」と思って買収しました。鉄道の仕事をしているので、将来的には列車や駅の清掃など鉄道分野とのシナジーもつくれると考えました。

――ユニバーサル野球など、その後も活動が広がっていますね。

ユニバーサル野球(堀江車輌電装が2019年に独自発明した、障がいの有無や性別、年齢を問わず、すべての人が一緒に野球をプレーできる1/20野球場)につながったのも、人との出会いです。

北海道で電気工事会社に勤めていた方が、障がい者に関わる仕事をしたいと考えていて、当社の「障がい者支援事業部」を知って連絡をくれました。

一度東京で会い、私も北海道へ行って障がい者への思いなどを話しました。すると「社長のもとで働きたい」と言ってくれて、当社に入社することになり、2カ月ほど後には東京へ出てきました。

彼が障がい者支援の仕事やボランティアに関わる中で、ユニバーサル野球にもつながっていきました。

すべては人好きと大きなおせっかいから

――なぜ、鉄道車両の整備にとどまらず、さまざまな事業に取り組んできたのですか。

多分、人が好きなんでしょうね。

事業そのものにこだわりがあるわけではないんです。事業は、そこに関わる人たちの困りごとを解決するための手段だと思っています。だから「自分に何かできることはないかな」と考えて、それが事業につながっていくんです。

ビルメンテナンスも、ビルメンテナンスが好きだから始めたわけではありません。障がいのある方が仕事をできる場所をつくりたいと思ったからです。ユニバーサル野球も、野球をやりたいという障がいがある子がいたことから始まりました。

親しくなった人が何かに困っている。それに対して「これをやったらいいんじゃないか」と考える。ある意味、大きなおせっかいから事業を立ち上げているんです。

よく「会社のビジョンは」と聞かれますが、世界展開したいとか、上場したいとか、そういうものはありません。

人とのつながりの中で一緒に事業を立ち上げたり、世の中の困りごとを解決したりする。それを時間をかけてやっていくだけです。

もちろんビジネスなので、利益を上げなければいけません。きちんとマネタイズして信用を築き、その上で事業として成立させる。急ぐ必要はないと思っています。

――最後に、これからについてお聞かせください。

世界には何十億人、日本にも1億人以上の人がいる中で、縁があって人と出会います。でも、名刺交換をした人の中から本当に親しくなる人はごく一部です。

私も46歳になって、使える時間は限られてきました。70歳まで経営者を続けるつもりはなくて、50代から遅くとも60歳ぐらいまでには、今の社員に会社を渡したいと思っています。

だから、これからは会う人も選びたい。事業でもプライベートでも、自分の時間をどう使うのかをきちんと考えたいと思っています。

その中で人と会い、話をして、そこからまた何か新しいものを生み出せたらいいですね。

私はやっぱり人が好きなんです。人と会って、ご飯を食べて、いろいろな話をする。そこからもらったヒントで、また何かを始めてもいい。

これまで20年近く経営に携わる中で、人とのネットワークや会社の信用、資金力など、昔にはなかったものも持てるようになりました。

若い頃のようにがむしゃらに動くだけではなく、これまで培ったものを使いながら、若い経営者とも何か一緒にできたら面白いと思っています。

堀江車輌電装株式会社 代表取締役 堀江 泰

1980年生まれ。埼玉県所沢市出身。

2000年に堀江車輌電装株式会社入社。鉄道車両の整備・改造の現場で7年働き、2007年に常務取締役、2012年に四代目代表取締役に就任。代々続く車両事業の拡大の一方で、2015年には障がい者支援事業、2016年にはM&Aによりビルメンテナンス事業、2022年には未来創造事業(ユニバーサル野球)を立ち上げ事業領域を多角化。【人】への想いと経営理念である「柔軟な発想と実行力で、広く深く社会に貢献する企業」を軸に事業へ取り組む。


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イノベーションズアイ株式会社 代表取締役 加藤俊之

1968年生まれ・茨城県出身。大学卒業後、証券会社、IT企業、物流企業、政府系プロジェクトを経て、2006年にイノベーションズアイ株式会社(現在)を設立し代表取締役に就任。グローバルベンチャー、ローカルベンチャー、大学発ベンチャー、日本のものづくりを卓越した技能で支える中小企業など、多様なイノベーターと向き合ってきた。「未来を創る企業を増やす」を使命に、「発掘×発信×発展」を事業コンセプトとしたビジネスプラットフォームの創造に取り組んでいる。

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